教育

除法は乗法 (長いぞ!誰が読むのだろう)

2008年4月24日

除法は乗法

子どもが育つ時に 出会う人がいる。

長女は

数学の先生に恵まれ、

次女は

国語の先生に恵まれている。

この時期

教師との出会いは重要で

「いい先生」とは、

最終的には 相性のようなものかもしれないと思う。

自分の感受性に響く、

人間性をもっている方が

「いい先生」であったり。

知りたい 高度な知識を与えてくださる方が

「いい先生」であったり。

学習の方法に 気づかせてくれる方が

「いい先生」であったり。

その学問が なぜ生まれたのか

自分が その学問を いかに愛しているのかを

熱く語ってくれる方が

「いい先生」であったり。

ただ、何も手を出さないことが

「いい先生」であったり。

何が正しくて、何が間違っているなんて、

こだわることはなくて

それぞれに自分の答えをもつことが、

大事なのだと思う。

 


次女は、

昨年、数学の先生から、

彼女にとっては

彼女のペースではない 授業を授けられた。

それでも、

それに慣れて、

自分のペースを作る必要があるのだけどね。

 

今年。

普通の先生が 普通に授業をする。

長女だったら、

「教科書、読んでるだけじゃん」

と表現するだろう と思う。

長女の数学教諭への期待は大きく、

数学は 単に

数や 図形の 学問ではない。

本当の 数学力は、

論理的に 筋の通った文章が 書けるかどうか

そして

自分で 独自に 主題を構想する力が あるかないか で測られる。

 

だから、

数学は 言語力の一部と みなしたほうがよい。


数学は 根源的な言語力 であり

文化的社会において尊重されるべき

第一の教養であってもらいたい。


リンカーンや ガンジーや チャーチルの 愛読書が

「ユークリッドの原論」であったり
ユークリッドの原論

ギリシャ人の書いた数学の教科書が

聖書につぐベストセラーであり続け

この二千年間、

まっとうに ものを考えようとする人にとっての 必読書だったことの 意味は大きい。


そんな話をしてくれるような教師を求めている。

それでも、

次女にとっては、

自分の理解度に合わせて

ある程度のスピードと緊張感で 授業をしてくださる先生は

「わかりやすい」のだ。

前の先生の授業ペースを知る私は

「今の先生。早くない?」

と聞いた。

「だって、1年生の復習だもん。わかって当然でしょ」

「でも、先生に質問していた人がいたでしょ」

「1年生の復習を質問する方が、まずくない?」

「たしかに・・・」

「割り算は、かけ算と同じことです。逆数をかけるってことだよね」

「つまり、除法は、乗法に含まれているんだよね」

先生のこの説明が理解できてる?

と聞くと、わかってると。

「質問している人が、どうして、分数はひっくり返すんですか?って聞いてたけど

今、そんなことを言ってたら、まずいでしょう」

とは、次女。

 


でもね。

本当の数学者さんたち曰く、

実は、そういう部分からの出発なのだってさ。

ある高校数学の先生がこんなことを言ってたよ。

おもひでぽろぽろ [DVD]おもひでぽろぽろ」(91年、高畑勲監督)というアニメ映画を見ていたら

主人公の少女が 分数の割り算ができなくて、

数学(算数)が嫌いになるエピソードが出てきた。

例えば

「3分の2割る4分の1はいくらか」

という問題の意味が どうしても分からない。

優等生の姉がいて、

「分数の割り算は、ひっくり返してかければいい。

九九さえ出来れば分数の割り算は簡単だ」

と言う。

ところが、主人公の少女は

どうしても 問題の意味にこだわってしまう。

そこで、

「そもそも2/3を1/4で割るということはどういうことか」

と 姉にきくわけだが、

優等生の姉も この問いには答えることができない。

映画では このあと

主人公の少女は 数学が嫌いになったかわりに

作文や 演劇などで 才能を発揮して、

家族にも存在を認められることになる。

一般的に言えば、

「彼女は数学には向いていない。文科系の資質がある」

ということになるのだろう。

しかし、よく考えてみれば、

この少女の方が 優等生の姉よりも

よほど真剣に 問題を自分の頭で考えていた。

つまり「ほんとうの数学」をしていたのである。

 


割り算とは何でしょう

割り算はわけることである

という理由を書いた人が多いのは、小学校で初めて習う時

「分けること」と習ったからなのでしょう。

「分けること」の計算に使うのは「応用」であって、「本質」ではありません。

「応用」から入るのは、現実の問題を考えさせることによって

導入をやさしくするという「教育的配慮」です。

 

割り算の本質は「1あたりを求める」ことです。

 

そして掛け算は「1あたりがいくつぶんあるか求める」ことです。

 

したがって数学的には

除法は乗法

割り算は掛け算の逆算です。

10/5 = 2 の答えを出すときは掛け算の九九の表を思い出して

5×2 = 10 を計算すると思います。

つまり 10 = 5×2 だから 10/5 = 2 なのです。

10 = 5 × 2

10 ÷ 5 = 2

分数で割ることの意味については、例えば、1を4分の1で割るのであれば

1の中に4分の1がいくつあるか考えて、4という答えが得られるのです。

河合塾の丹羽健夫氏が、次のように述べています。

学習の傾向として生徒には

「理解型」と「納得型」という二つのタイプがある。

「理解型」の生徒は、

たとえば次のようなタイプの生徒である。

「そもそも数学という教科は、誰か知らぬが 頭のいい人間が 作ったものであって

教科の内部は 構造的に整合性があり、必ず 問題に対する 答えはある。

だから 今解けなくても 教科の領域を 逐次学習していくうちに

必ず 答えは向こうから 姿を現すであろう。 それまで ちょっと横に おいておきましょう」

これに対して

「納得型」は、一つ一つの事柄に対して、納得できないと気が済まない。

「大げさに言えば、森羅万象に照らして 正しくなければ 納得できないし、

先に進むことが できないのである。

しかし、いったん納得すると 喜びが体に満ち、勇気百倍して 先に進む」

たとえば、分かりやすい例が

「分数の割り算」だろう。

「分数で割るときには、ひっくりかえして掛ければよい」

と教えられて

「なんだ簡単だな」

と考えるのが

「理解型」で

「分数で割るというのは どういうことだろう。

なぜ、ひっくりかえして かけると 正しい答えがでるのか」と

いちいち こだわらずにいられないのが

「納得型」だ。

 

この二つのタイプの内、

どちらが受験競争の勝者になるか、

結果は明らかだろう。

つまり、

「納得型」は

ペーパーテストで あまり高い得点をとることは できそうにないのだ。

それどころか、

学校に適応できず、

かなり早い段階で 競争から脱落し

いわゆる おちこぼれになる可能性がある。

しかし、本当に独創的な研究が出来るのは、

ほとんどこの「納得型」である。

ノーベル賞級の学者で、

納得型に 属さないような学者はいない。

「理解型」はただ他人の研究成果を迅速に理解し、

これを紹介することはできるが

創造力は持ち合わせていないからだ。

 

除法は乗法


理解型と納得型

次女は「理解型」で、

長女は「納得型」のような気がしてならない 私は

つい、ここで 苦笑してしまう。

-・ +・ ×・÷ の 記号の由来

知っていますか?

数学の 計算記号。

–  の記号は、

樽に入った飲料水の残量を示すのに記した 横線[─ ]が元になっている。

減っていくことを 横線で表したので、

引き算の記号に – を使うようになった。

樽に水をいっぱい入れた日には、

–  記号に縦線[ │ ]を書き入れて消した。

そこで、+ が足し算記号になったのである。

× は イギリスの学者が 1631年に使ったもので、

十字架を斜めにして かけ算記号にしたそうである。

÷ は 割り算を 分数に表した形で、

上と下の[・]は 分子と分母を表している。


記号にもちゃんとした意味がある。

そんな風に、

数学の先生が 生徒に話が 出来たなら

数学嫌いの生徒も 減っていくのかもしれないなあと思う。

「納得型」の生徒は、

こういう話を 渇望しているのではないかなと思う。

こういう話ができる先生は、

数学を なにより愛しているのだろうと感じる。

数学を愛するおとなの姿を見て、

同じように 数学を素晴らしいと感じる生徒が 出てくるのだと思う。

残念ながら、

数学を愛せない私は

国語や文学を愛している(随筆や エッセイも 文学になるのであろうという 新聞の論壇が 嬉しい)。

だから、子どもたちは、

少しは 言葉に敏感であってくれているように感じるし

文字を読むことを 楽しんでくれているように思う。 (←親バカ)

生きてく時に、数学は必要だ。数学は教養だ。

と、言われる 数学好きのおとなと同じように

人生に、文学は必要不可欠で、 時に、生きていく指針にも安らぎにも教養にもなる!

と、私は思うのである。

そういう、おとなの姿が、

子どもを

勉強することって苦痛なことではなく、

楽しみながら学習できるものなんだと

思わせる 魔法になるのではないかなと思った。

 

 

 


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 

特に 教育 を テーマに記した 拙文については こちら を ご高覧いただけましたら幸いです。

 

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