母 はあたたかかった・・・ なのに、冷たい冬の気温は 母 を想い出させる・・・
有名な方の癌の手術が報道される度に、
普通の人の手術とはあらゆる面で
その万全さに対してのスタンスが異なるのでは
と疑ってしまうのは心の狭い了見でしょうか?
告 知 2000年 夏〜初秋
母のことを
ひまわりのような人だ・・・
と、
母の通夜の席で泣いた男性が言った。
母 は亡くなる年の前年から胃腸がおかしいと
膵臓癌が発見されるまで2度も胃カメラをした。
どこにも異常はありません。
しかし、食欲はなくなるし、疲れやすい。
当時、宅地建物資格試験を取るために
50歳を過ぎての挑戦をしており
仕事後にスクールに通い、
2年めにしてその免許をようやく取れたばかりの夏。
そのせいだろうか?
そう思いながらも、背中に痛みが出始め
寝るときも仰向けになれないほどの痛さ。
仕事中も激痛で横にならねばならない辛さ。
あまりに尋常でない自分の身体に
「自費でいいですからMRIで診て下さい」と。
そこで膵臓に7cm大の嚢包があると分かり
大学病院へ検査のために送られた。
2000年 8月の終わり
膵臓癌という診断は結局、
9月になって手術日の3日前に教授によって
私と妹と父にはっきりと告げられた。
それまでは膵臓癌を疑った検査が重ねられたが、
「私はただの検査」と明るく言って、
他の患者さんが暗くなりがちな時には、
勇気づけたり元気づけたり。
なにしろお見舞いに行く度に
母のベッドは空で、
ロビーで笑い声がすると思うと、
母が入院患者の中で楽しそうに話していて
「あら、お嬢さんにお孫さん。お話の通りね」
などと言われ
(一体、何を話してるんだあ〜!)
と思ったものだった。
膵臓癌の検査は、身体に負担の大きいものが多く、
やりたくないと言っても
病院のスケジュールに沿ってやらなければならない。
入院すると病人になる〜という例えのように、
癌を視野に入れた検査をする=自分も癌
という気持ちになってくる。
病院が病人を作る
検査の中には1日がかりのものや、
食事を抜かねばならないもの。
身体に負担のかかるもの。体力を失うもの。
そんな検査が毎日続く。
深夜になると立て続けに亡くなる患者達。
ここはまさしく癌病棟なのだと確認する。
様々な制約をされながらの入院生活で
徐々に気持ちも悪い方へ向いてきた。
入院の日
母は父の会社で仕事を手伝っていたため、
父は「この仕事が大変な時に」という思いからか
母の入院を快く思っていなかった。
雨降る中、母は大通りまでタクシーを拾い、
家の中にいる父と弟に向かって
「では、行ってきます」
と、たった一人で病院に向かった。
私は横浜から母の入院先の病院へ行き、
そこでおちあい入院手続きを手伝った。
「こんな雨の中、たった一人で入院したのよ」
それからも亡くなるまで、ずっとずっと、
悔しそうなその言葉が繰り返された。
本当は心細かったのだろう。
母の病名ははっきりと知らされず、
手術の日程だけ決められた。
手術の説明のため父と私と妹が呼ばれた。
母は、時間になっても先生の説明が始まらず
やきもきして
トイレに何度も立ち、そわそわしていた。
何度めか母がトイレに立った時、
母を残して私達だけが呼ばれた。
消化器外科では有名と言われる教授と
アメリカで外科を学んで帰ったばかりの助教授。
そして担当のドクターと研修医。
病名は膵臓に出来た進行癌です。
膵臓癌に効く抗がん剤はありません。
できることは手術で癌を取り除くことです。
手術をしても余命1年と思われます。
助教授が言う。
「ただ、日本ではまだ試験的段階ですが、
私がアメリカで最先端の医療を学んできました。
取った膵臓癌を培養し、
逆にその癌を叩く細胞として身体に戻し、
手術後に残った癌や新たにできた癌を叩き、
生存率を上げる方法があります。
お母さんの場合、その治療を行うことが
一番適していると思います。」
私は尋ねた。
「今、母にとって痛みが一番つらいことのようです。
手術をすればその痛みは取れるのですか?」
それは痛みがとれる場合もありますが、取れない場合、
痛み止めを処方し最終的にはMSコンチンもありますから。
妹が口を挟んだ。
「もし、手術しなかったら母はどのくらい生きられますか?」
その場にいた全員、凍り付いた。父は妹を睨んでいた。
そうですね。1年くらいでしょうか?
「手術しなくても1年。手術しても1年。
だったら切らない方がよくないですか?
今は食事も食べられるし楽しそうに話も出来る。
笑っていられる時間がある方がいいのでは?」
父が大きな声を出した。
「何を言ってるんだ。少しでも可能性があれば
生きられる可能性を選ぶのが当然だろう。
先生、お願いします。すべておまかせします。」
では、患者様本人への告知ですが〜
「それはちょっと待ってください。
息子が死んでそのことも知らせていないし、
精神的負担を考えると
はっきりした告知は避けてほしいのです。」
では膵臓にできた腫瘍を取る〜という形で
癌という言葉を避けてお話させていただきます。
母が呼ばれた。
「どうして、先に行っちゃうの。私一人残されて……」
母の声は震えていた。
母の手はぶるぶると震え、
これまで何が話されていたのだろうか〜と
怒りと苦しみと哀しみと恐怖
それらの複雑な気持ちがその手に顕われていたようだった。
助教授は話し始める。
膵臓に出来た腫瘍を取る。
その腫瘍がいいものか悪いものかは
取ってみないと分からない。
もし悪性だったとしたら
膵臓の腫瘍に抗がん剤は効かない。
切る〜という手段が一番適切で、
それによって取り出した腫瘍から細胞を取り出し
それを培養しそれを体内に戻す
免疫細胞療法という治療で最先端医療があります。
また、術後、活性化自己リンパ球移入療法という
自分の血液からリンパ球を取り出し、
癌を攻撃することができるリンパ球を刺激して
増やした後、再び体内に戻すことによって、
新たな腫瘍を叩くこともできる
免疫治療の設備がここにはあります。
活性化自己リンパ球移入療法は高度先進医療で
自費扱いですがやる価値があると思います。
母は先生の話に頷き、
「お父さん、どうしましょう」
と聞く。
「いくら金がかかっても命にはかえられない。
おまかせしよう。」
「そうね。お父さんに感謝しなくちゃね。
高い治療も受けさせてもらえるのもお父さんのおかげね。」
では、手術は明後日です。
手術の同意書を渡され、父は教授にこれを……
と札束の入った、分厚い封筒を渡した。
中身を確かめもせず、当然のように受け取る教授。
結局、その晩、父は
「腫瘍ということは癌ってことなんだ。」
と母に告知した。
母は後から、こんな風に振り返っていた。
「あの日、注射を打たれて
どうも利尿剤だったような気がする。
だからトイレに何度も行きたくなって
その隙に皆だけ呼ばれたんだね。」
告知〜そこで余命を告げられた時、
家族であっても激しい動揺を隠せなかった。
いとも簡単に人間の寿命を予測する医師の姿は
冷淡でいなければできないことなのかもしれないけれど、
生きている人の生命を予告する力の前には
それにすがるしかない
弱い弱い人間の姿をさらすしかなかった。
弟の死から5日後
まだまだ夏の日差しを感じる9月の終わりの頃であった。
闘 病
2000年 秋
手術は8時間ほどの予定で始まった。
家族はロビーの椅子でひたすら待つだけ。
手術中に何かあった時、すぐに呼び出せるようにと。
その日、横浜から病院まで
乗るはずの電車を待ちながら乗り遅れた。
地下鉄を3本乗り継がねば着かないのだが、
逆方向の地下鉄に乗ってしまった。
母が入院して以来、毎日2時間かけて通って、
乗り換えの車両まで熟知していたはずなのに
人間てこんなにも心弱いものだ
と自分に苦笑していた。
ほぼ予定通り手術は進み、
途中、母の体内からの摘出物を確認する。
「もうね。癌の部分は培養に回しているから
ほとんどこれは残骸だけどね。」
理科の実験室に置いてあるような
トレイからはみ出しそうなほどの
ものすごい量の残骸だった。
血まみれで母の内臓のほとんどを
えぐり取ったのではないかと思うほどだった。
それは確実に母の一部であったのだが、
医師の言葉の通り、
残骸でしかない物体にと変化していた。
肉体なんてものはただの物体であり、
精神を離れれば残骸でしかないのかもしれない
術後、ICUに入れられ
少しの時間なら面会できると、
私と妹、父が母と対面した。
ICU用の白衣帽子スリッパに履き替え
手をきれいに洗い、眠っている母の横に立った。
「ママ!」
私がそう呼びかけるとうっすらと目を開け、
母は「お父さん」と父に呼びかけた。
父の顔をじっと見つめる母。
私達の小さい頃から、父に殴られたり
理不尽な目に遭い辛い思いをしていたけれど、
それでも母は父を愛し
頼っているのだとその時に感じた。
「ママ、よく頑張ったね。手術は成功だよ。
悪いもの全部とったって。」
母はウンウンと頷いた。
「また明日来るよ。」
そう言って帰った。
翌日、妹は海外へ戻って行った。
母は術後、とにかく早く回復したいと
がむしゃらに頑張っていた。
しかし、思うように回復せず
いつまでたっても食事もできず点滴で、
「早くご飯が食べたい。早く帰りたい。」
と焦るようになった。
ようやく食事がおかゆになっても、
なかなか口から食べることができず、
ドクターに
「好きなもの、食べたいものを食べればいい。」
と言われ
「術後、食事制限で食べちゃいけないものとか指導するのに
私には好きなもの食べなさいって、
私が死ぬみたいじゃないの!」
と言う時もあった。
患者の心というものは、大変ナーバスなのである。
せめて喉越しのいいものを〜とゼリーなどの
リクエストに応え買ってくると
「これじゃ、ないのよね〜」
と言われた。
普段、親子であっても、気を使い
決して他人を不愉快にさせたりすることのない母が
とてもとても苛立っていた。
そんな母を見かねて、ある日、助教授に尋ねた。
取った癌細胞を培養して癌を叩く細胞に変え
体内に戻す免疫細胞療法はどうなりましたか?
「ああ、あれね。癌細胞取れなかったんだよ。
膵臓癌て固いんだよね〜。
取るの難しいんだよね。
なかなか取れないものが多いんだよね。」
それは…… 母ががっかりすると思います。
「仕方ないよね〜。
でも、リンパ球の治療はできるからさ。」
エレベーター前の立ち話
そうしてエレベーターで降りて行った助教授に、
私の右手は固く拳を握っていた。
母の落胆は私以上だったが、それでも、
「まだ自費の治療があるから。
きっと、それで儲けたいのかもよ。」
と軽口を叩いていた。
長女は大変過敏な小学生であり、
病院独特の匂いや雰囲気が苦手であった。
なにより弟の死を母に伝えていなかったため
この子の口から知らせるようなことが
あってはいけないと平日は連れて行かなかった。
次女はそこにいるだけで
周りをしあわせにするような幼児であった。
うるさい幼児のように騒ぐこともなく、
母の病院臭いベッドの上で
長い時間座っていてもニコニコしており、
次女の存在そのものが母の笑顔を誘う。
幼稚園を休んで連れていったり、
母と長女の交換日記を届ける役目をしていた。
「まゆちゃん。運動会行けなくてごめんね。
かけっこ1等になるように応援してるよ」
母のそんな日記に
「もう!1とう、とれなかったよ。
ちゃんとおうえんしてくれてたあ」
そんな二人のやり取りが残っている。
母がそれを見て
「これ、まゆちゃんたら応援してないから
1等とれなかったって言いたいのかしら?」
と苦笑していた姿を思い出す。
次女も負けじと おえかき日記を作り、
つたないひらがな と 絵 で 母とやり取りをしていた。
術後3週間ほどで退院の予定が、
全くメドが立たない。
ある日の教授回診で教授が
「いつまで置いとくんだ。
もう退院の時期だろう。」
との一言で退院が決った。
退院前に自分のリンパ球を取り出し
増殖させる活性化自己リンパ球移入療法のため
血液を採ることになった。
かなりの時間をかけ、血液を採取し、
それを機械にかけリンパ球を増やし
増殖したリンパ球を
再び母の身体に戻すのである。
退院の日
母の要請で看護婦さん
(当時まだ看護士という言葉ではなかった)
にお礼の品を買い
担当医に付け届けをした。
退院したその日
母の最も辛い日となった。
弟の部屋に弟の遺骨は置いていた。
リビングで弟の名を呼び、
父とともに弟の部屋に行った。
そこにいるはずの息子は骨壺に納められ、
弟の使っていた机の上に置かれていた。
母の悲痛な叫び声を聞いた。
泣きながらリビングに戻った母に
「ごめんなさい。
どんなに後で責められてもいいと思っていた。
あの子が死んだ頃、
ママも自分が癌かもしれないと
すごく不安でいた時で
そんな時に話せなかった。
きっとあの病院の窓から
飛び降りてしまうのではないかと、
どうしても言えなかった。
手術してこれだけ頑張った後だったら、
きっと
生き抜いてくれるはずだと思ったの。
私のことは一生、黙っていたことで
恨まれてもいいと思った。
ママが手術して生きる希望を
もってほしかったから。
ごめんなさい。」
そう泣きながら話すと、
「まりちゃん。ごめんね。
あなたが一番つらかったでしょう。
弟のこと大事にしてくれてたもんね。
ママのこと思って、
ママがわがまま言って困らせてた時も、
ずっとずっとニコニコ笑ってくれて。
それなのに、ママは自分のことばっかりで……
ごめんね。辛い思いさせたね。」
ああ、この人は私の母だ!
こんな娘に…母を欺いていた娘に
いたわりの言葉をかけてくれた。
ずっと、ずっと、
弟の死を隠していいはずがないと
自分を責めていた私を
赦してくれたのだ。
その後2週間
私と次女は実家に泊まり込み、母と生活した。
母の気持ちが少し落ち着き、
自分の残りの人生は弟の供養に捧げたいと
仏壇を購入し、お寺で供養をしてもらい
母は精力的に動いていた。
私は自宅へ帰ってからも
毎日食事を作りに東京まで通った。
活性化自己リンパ球移入療法の治療の時は
病院まで送り迎えもしていた。
しかし、
この治療をすればするほど母は弱っていった。
徐々に体力を失い、食事も取っては吐く、
あるいは下痢状になっていた。
治療しようにも採った血液のリンパ球が少ないと
治療ができない状態になった。
再入院
その頃、とにかく膵臓癌
癌という本を片っ端から読んでいた中に
癌には性質(たち)のいい癌と
そうでない癌がある。
性質のいい癌は切れば治る。
しかし性質の悪い癌は切ったことで
全身に癌細胞が広がり
却って死期を早めることになる。
という文章があった。
母は癌を切り、
さらに残った血液を取り出し、
再び自分の体内に戻す治療をしていた。
残った血液に癌細胞がなかったと
誰が保障してくれようか。
これだけの急激な体調の悪化は
母にとってこの治療自体が
間違っていたのではないだろうか?
すでに母は検査を受ける余力も無く、
高カロリー栄養の点滴で
生きながらえていた。
父と今後の治療方針を聞くために
医師団と話をした。
もう一度、活性化自己リンパ球移入療法を
してはどうかと言われた。
私は思っていた質問をぶつけた。
「この治療をする度に
母の具合が悪くなっていったように
思いませんか?」
「そうかもしれませんね。」
これで母の治療法はなくなり、
対症療法へと変わった。
父はその後、私に向かって
「お前があの時、
治療を拒んだから母親を殺したんだ」
と言った。
母は手術で消えると思った
背中の痛みも消えず
(すでに神経まで癌細胞に侵されてたそうだ)
しかも、腹膜に転移し
(おへそが変だから見て〜と言われ見ると、
母の臍部が真っ黒になっていた。
腹膜からお臍を通じすでに
腹腔内まで癌は湿潤していた。
それでも私は涙をこらえ、
「きっと傷がこわくてきれいに
洗ってなかったせいじゃない?」
と消毒をしてやっていた)
最終的にMSコンチンを使用した。
MSコンチンてなんだろう?
〜モルヒネのことだった。
医学用語は
無知な患者を惑わすことなど簡単だ。
父は何を血迷ったか
丸山ワクチンを手に入れて、
医師に頼み注射してもらい投与した。
ドクターに
「こんなもの身体に悪くないですか?」
と聞くと
「水と一緒で毒にも薬にもならない」と。
しかし、何度めかの注射で容態が急変。
母の身体が痙攣し、目を剥き、
どうにも押さえきれない容態だった。
同部屋の人にも不安を与える。
個室に移ることになった
臨 終
2001年 冬 臨終
個室に移る=死期が近い
そんなことは母自身、
入院生活で見知っていた。
だからなのか、
根っからの人好きなのか、
病室も大部屋の方が
皆と話ができて楽しいと言っていた。
父は個室に移ってから、
ひたすら母の側に付き添った。
それは傍目にみたら
麗しき夫婦愛に見えた人もいるだろう。
母の退院後、
弟のことで父が母に言ったそうだ。
「お前がいつまでも甘やかして育てたから、
お前が癌だと悲観して
あいつは死んだんだ」と。
母は
「私のせいなの?」
と聞いてきた。
違う。
弟は前日の夜、
私に電話をかけてきた。
「とにかく怒鳴ってるんだ。
そして僕を罵倒する。
あの父親にだけは言われたくない」
それが弟が話した最後の言葉だった。
弟の電話に残されたリダイヤル
私の家の電話番号・・・
私の目にずっと焼き付いている
父は全て、
自分の思うようにならないことは、
母であり、娘であり、
息子である者のせいなのだ。
母が死に逝くことも、
納得できない子どものように、
母の側で「死んじゃいけない」と
母を責めているのだ。
「俺を残して逝ってくれるな!と。
母は苦しみながら死んだ。
ドクターが呼吸荒い母のため、
注射をしましょうか?と言った時、
父は
「さわるな!」
とドクターを払いのけた。
注射をすれば息苦しそうにしている姿は
押さえられる。
ただ、それは見ている
ご家族の方の辛さを考えてのことで、
患者様は意識も無く
痛みも苦しみもないですから、
見た目よりも辛いわけではないです。と。
本当に辛くないのだろうか?
苦しい苦しい〜そう喘ぐような姿・・・
母の手を握る
父の側にはいられなかった。
ナースステーションで
心電図からの警報が鳴る。
看護婦さんが慌ただしくなる。
その時がきた
母は美しく、20歳の時に私を生んだ。
幼い頃授業参観で
「マリコのママ、若くてきれいでいいなあ」
と言われた母とは
似ても似つかない
断末魔 とはこのことか
と思う母の変わり果てた姿だった。
看護婦さんにお願いした。
「母は私の自慢の本当に美しい人でした。
だから死化粧は手をかけてください」と。
「本当におきれいなお母様でしたよね。
心をこめてお造りします」
そう言ってくださった看護婦さんだった。
母は美しい死化粧を施され、
若き日の母を思わせる姿となった。
断末魔の悲鳴で
大きく開けられた口を閉じることは不可能で
布で顔を包むようにして
眠ったままの姿となった。
21世紀を迎え、雪が降る寒い寒い冬の未明だった
その年の夏
教授が顧問となり、
助教授が院長となった
免疫細胞療法を専門とする病院が
活性化自己リンパ球移入療法を
施すことのできる
数少ない施設として
立ち上げられたことを知った。
母の主治医となり、
積極的に活性化自己リンパ球移入療法の
治療にあたったドクターも
スタッフとなって活躍している。
〜実験台〜
そんなことばが、
ふと頭の片隅をよぎる。
もしも有名人だったら、
こういう治療方法を選んだのだろうか?
大学病院には
もちろん治験的な治療も必要だ。
見事に母に関わったドクターが
こうして病院を設立し
その同じ治療を繰り返している現実。
薄ら寒い気持ちをどうしてももってしまう。
他に選択肢はなかったのだろうか?
知らぬことは恥ではない。
しかし無知でいることは
取り返しのつかないこともあるのだと
ようやく気付いた。
「手術しても1年。しなくても1年。
だったらしない方がよくないですか?」
そう言った妹の、
クォリティオブライフ「QOL」(生活の質)
の捉え方を
なぜよく考えてみなかったのか。
今となっては遅いけれど、
死に対しても
考えてみなければなるまい。
自分はどのように生きて、
死の瞬間、
どのように迎えたいのかを。
私は子ども達に、
死に逝く時に
苦しむ姿を見せたくはない。
静かに〜
自分はこれだけ生き抜いて
そして旅立つのだと
凛とした瞬間として受け止め
死に対して恐怖ではなく
あるべき姿なのだと
思ってもらえるような
最期を迎えたい。
思う通りにならないのが
人生だが、
母はあの最期を
私に見せたくはなかっただろうと
母親となった私は思うのである。
享年 54歳
まだまだ、そばにいてほしかった
美しい母の死であった
過COノCO途にて、自分を振り返っています。
お時間ございます方で、小幡万里子のことを深く知りたいという物好きな方がおられましたら、
ご一読いただけましたら幸いです。
追記 : 2019年2月
母が愛した孫の3人(長女の私の娘二人と、次女の息子一人)のうち、
初孫であり、愛情深く大切に育んだ
私の長女が、母と弟が設立した会社の後継者として、取締役に就任いたしました。
彼女の成長も見守っていただけましたら幸いです。
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