こんにちは。
クラブマネジメントの小幡万里子です。
教員免許の更新に必要な講習に教員の応募が殺到し、全国の講習会場でキャンセル待ち状態が続出していることが25日、分かった。民主党が教員免許更新制度の廃止を打ち出したものの、その後の参院選で惨敗し制度廃止の法案が提出できない状況のため、廃止を見越して講習を受けていなかった教員が“駆け込み応募”したためとみられる。今年度中に講習を受けないと免許を失効する可能性もあり、文部科学省は全国の実態調査に乗り出す検討に入った。
リンク切れ(産経新聞)
教員免許更新制は教員の資質を第三者機関が判断する制度として生まれたはず。
結局は、教員の資質とは何か?基準をどうする?誰がやるのか?公立の教員は公務員であり、勝手に退職させるわけにいかないだろう。と、数々の問題をかかえたまま、体裁を整えるために、10年に一度、文部科学省の指定した教職課程専門の大学での決まった時間の講習受講となりました。
世論は、問題教師の淘汰を願っての声であった教員資質の見極め調査であり、教育現場では、教員のスキルアップであり、また初心を思い起こすための研修であったはずなのに、まったく意味のない制度となってしまいました。ですから、民主党がいってたから~と、すぐになくなる意味のない講習を受けるだけ損と自主判断した教員が出てきたのは当然でしょう。
とはいえ受講しなければ教員免許は剥奪すべきです。なぜなら、それが決まりだから。
学校には意味のない校則があり、社会にも暗黙の了解と、法律や、個々のルールがあります。
校則は、それを生徒に強いている指導者である教員が、更新制を廃止との自分勝手な思い込みで受講すべき時にしなかったという個人の問題です。
校則だって、生徒が「これっておかしい」と思っていても、学校の秩序のために、校則は守らなければならないのと一緒です。
むしろ、上級生の下級生への「1年生のうちは、茶色いセーター着るのは生意気」というような、暗黙のルールの方が間違っているわけです。馬鹿な親や教員は「それで学校の上下関係、秩序が保たれている」などといいますが、だったら、2年生も3年生も茶色のセーターは着てはならぬ!と明確なルールつくりをして、年齢など関係のない公平な決まりと校則とすることが、平等というものでしょう。
今回の駆け込み受講者の教員に猶予を与えたら、生徒に対して示しがつきません。
決まりは守れという指導をする以上、それに応じなかった自分は、それだけの覚悟があったと、その結果を受け取るべきでしょう。
また、受講を引き受けた大学側では最初から受け入れ定員を明確に公示しており、たとえば、東京で受講者がいっぱいになれば、夏休み、冬休み、春休み等を利用し、地元や出身大学での受講も可能であったわけです。
国内で10年に一度ずつ、受講するための需要の受け皿として、受講者数への供給はしっかりと用意してあり、実際に駆け込みしている教員は、受けるべき年度に受けず、猶予の期間をも、ほったらかしにしていたツケが回ってきただけのことです。
本来、やるべきことを後回しにする教員こそが、不適格な教員と見なされても当然のことです。
「これは無意味な制度だと思ったから、自分の生き方に反するとして受講しなかった」のか「どうせ、廃止になるんだから、損することはしたくない。つまらない講義を受けたって寝てるだけ。だったら映画でも見たほうがいい」と思ってのことか。
教育は教員だからできるのではないのです。
教える志ありさえすれば、誰だって、どこだってできるのです。
自分の高い志で受けない選択をしたら、最初から、結果はわかっていたはずです。
それとも、「こんないい先生だから辞めないで」という署名活動でもしてもらえると、甘い考えをもっていたのでしょうか?
「どうせ、なくなる研修だから、とりあえず寝てるだけの講義なんて、自分の時間が減るだけ」と、最初から社会の制度を甘く見ていたのでしょうか?
もちろん。教員は生徒のために児童のために、もっと多くの時間を割きたいと思うのは当然です。
働くお母さんだって、仕事でいっぱいいっぱいになるより、もう少し子どもと向き合いたいと思っている人がたくさんいます。それでも、仕事でやるべきことを、自分の無駄だと思っても、自分の時間がもったいないと思っても、やはり、やり続けるのです。
それが、責任です。
子どもたちも、その責任を果たす大人の姿をみて、寂しさや学びに時間がかかったとしても、残った子どもたちで力を合わせて、できることを精一杯、考え、行動していくのです。
教員がいない時間に、生徒が成長することだってあるのです。
親が仕事をしている時間、子どもも成長しているのです。
私自身も教員免許更新制は愚かな制度だと思っています。
高校無償化も愚かな教育を生み出すだけのものです。
それでも、それが法律で決められていたなら、その国で生きる以上、従わねばならないのも事実。
それに従わないならば強い自分の意志を貫く覚悟で生きるべきだと思うのです。
流されてしまえば、楽チンです。講習で寝ていても、免許は更新されます。
しかし、私は、苦しい自分となるのが分かっても、自分の魂に嘘がつけず、あえて、人が流される向きに逆らってしまうのかもしれません。
ただ、教員であることを誇りに仕事をして、本気で子どもたちのために教員を続けたいと願うならば、私だったら、たとえ、人が無意味であろうと言う講習であっても、子どもたちのために、決められた時間を費やし、その場所で人が寝ている時間を、少しでもその講習から学ぶことはないかと探します。
反面教師でもいい。むしろ、大学で教えることと、現場は違う!と有名教授と刺し違えるほどの議論をしたいと思ったりします。
そうすると、つまらないと誰もが言う講習だって、わくわくする講習に変わるではないですか。
教員の仕事は、文科省で決められた指導要領を行うことです。
しかし、そのつまらない指導要領といわれるものを、いかに自分にも生徒児童に楽しいものに変えることができるか、そのスキルを問われていると思ったら、その挑戦状に負けない自分であろうと、むしろ、私は闘いを挑みます。
今回、受講し損ねた教員を救おうという活動が、必ず生まれるはずです。
しかし、そんなことに時間やお金を使う方が無駄です。
無駄とは、本来、決まった学習指導要領で子供たちに授業を強いている自分であることをを振り返り、子供たちのためにできることはなにかを、本気で考える大人の社会になることが、本当に大切なことであると思うのです。
今回、たとえ人気のある教員であろうと、一家が教員家族であろうと、やるべきことをやらなかったというのは、処罰の対象でいいと思うのです。
これを許してしまったら、それこそ、「教員はなにをしても許される」世の中を、大人が子どもに教えているようなものです。「教員はなにをしても許される」と思い込んでいる教員が、わいせつな行為を子どもにしたり、不倫という倫理に反することをしたりするのです。世の中は甘くはないと、大人も子どもも知るべきです。こういう人も許されるのだから、自分だって許されるべき!そんな甘さが、今の日本を作り上げている土台になっているということを知らなければならない時期に来ているのです。
大丈夫。
先生さまになった人間です。ちゃんと、次の 仕事先はみつかります。自分に甘えて生きなければ・・・ね。
この出会いと、時間を共有してくださった方がたに 心から感謝です。
今日も一日…ありがとう。
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