有希子シンドローム ~ ぼくはしなない 『ぼくは12歳』 岡 真史
1986年4月8日、
当時のアイドル 岡田有希子さんが 所属事務所の屋上から 投身自殺をした。
この月に19歳以下の自殺者は 100名にのぼった。
すべての自殺理由が 岡田有希子さんの後追い自殺とは呼べないが、
若い女性アイドルの自殺が、若者に与えた
「死」というものへの 甘美なささやきとなったことは否めない。
この事件のあった日、私は大学の入学式だった。
当時の私は 大学受験のプレッシャーや、
将来への自分自身への畏れ、
知っている者が誰もいない孤独
大学という 新しく踏み入れる場への不安…
そういうものを抱え、
入学したという 希望よりも
むしろ 不安や 恐怖の気持ちの方を、
大きく感じていた。
入学してすぐに受けた心理テストで
「死にたいと思ったことがある」に 〇をつけて
カウンセリング室に 呼ばれたこともあった。
なにが言いたいのか・・・
思春期というのは、
そういった 希望をも、
不安や 恐怖に 感じ、
自分自身を 過小に評価してしまう時期なのだ。
自己とは何か?
自己を確立するために どうすればいいのか?
難しい言葉でなくとも、
そういったことを 自分自身に問いかける。
自明であったり当たり前であったことさえも、
それが偽善や嘘ではないのか
素直に感じることができず、
疑いの目で見てしまう。
(親も含めて)大人は汚い。
大人の作る社会は汚い。
社会を批判する 大人は、
責め立てるだけで 自分が 何かしているのか!
そういう批判的精神と、自分の無力さとのせめぎ合い。
そういう時に、時代のアイドルが 自殺した。
しかも、写真週刊誌が その現場を 雑誌に載せた。
(私自身も) その衝撃は大きかった
人が死ぬということは 自然の摂理であるが、
神聖な 出来事である。
「死を看取る人間は 神に選ばれたものである」
そういう文章を目にしたことがある。
それを俗な欲望で 大衆の目に曝した。
(死ぬって 美しいことなのかもしれない・・・ふっとそんな気にもなる)
その結果が 有希子シンドロームと名指された 自殺者の増加に 加担したように 感じる。
毎日毎日、中学生、学校の校長、教師が 自殺という死の方法を 選択している。
今まで、死ぬような理由にさえならなかったことが 死の理由としてあげられる。
やさしい世の中に なったものだ。
心柔らかい 子ども達は、
周囲にいる 心ある大人達の言葉には 耳を傾けず
垂れ流される映像、情報を
ストレートに ダイレクトに
受け止めてしまうことがある。
すでに 小中学生の頃の心には 戻れない 私だが、
小学校の4、5年生頃に ある詩集を 何度も何度も読み返した時期があった。
『ぼくは12歳』 岡 真史
「ぼくはしなない」
ぼくは
しぬかもしれない
でもぼくはしねない
いやしなないんだ
ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから
(筑摩書房)
彼は 国籍の違いから、いじめに遭っていた。
12歳の少年ながら 自分のアイデンティティーを模索していた。
12歳とは 思えないような (12歳だからこそかもしれないが)
鋭い、透明な感性の詩を たくさん書いていた。
そして 12歳で 自らの命を絶った。
ぼくはしなない と記しながら 死を選んだ 『ぼくは12歳』 岡 真史
なぜ、
10歳から12歳の私が
この詩に 惹き付けられたのだろう。
その頃の自分を思い出し、
今の子ども達のことを思う時、
「死」は この時期の少年少女にとって、
確かに 魅力的な存在なのだと思う。
大人は「死」には 理由をつけたがる。
だが、この時期の少年少女には 「死」の誘惑そのものが
死ぬ理由にも なってしまうことを 忘れてはならない。
岡田有希子さんの死を 屍体という形で
あからさまに 大衆の目に曝した 20年前の暴挙を
今また、報道の権利を使い、
いじめ自殺の正当性という形で
大衆に垂れ流すのを やめてもらいたい。
いじめられていて けれど 立ち上がって、今は こうして頑張ってる!
例えば、そういうポジティブな人間こそが 美しいのだと 教えてやって欲しい。
いじめる人間には 欠けているものがあり、
そこは 同情するのではなく、
いじめる人間に それを気づかせることが 必要なんだ
ということを教えてやって欲しい。
幼い頃、
母は お葬式で、死者が横たわる棺の中に
花を手向けることを 子どもには 許さなかった。
それは 母なりに
「死」を看取る者という価値を
思ってのことだったのかもしれない。
今でも、
子どもの友人のお父様の葬儀や
(お母様はどんなに親しくても お父様には会ったことがない場合が多い)
結婚式で 一度だけ顔を見た 友人のご主人の葬儀などでは
私自身、お棺の中で横たわる死者に お花を手向けることに 少しの抵抗感がある。
子どもを連れて行った時には、
ご遠慮させていただき 先に お見送りのために 外へ出たりする。
子どもが「死」を 自分なりの理解を持って考えられるまで、
大人は待ってやらねばならない。
子どもに「死」」を しっかりと
受け止められるような 教育を
親が していってやらねばならない。
そんなことを 思った 今日一日。
お時間ございます方は、
今COCO にある ESSAYS IN IDLENESS – 徒然なるままに の
拙文を お読みいただけましたら幸いです。
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