映画の力

翼は心につけて

2013年9月26日

翼は心につけて という映画をご存じでしょうか?

 

こんにちは。
クラブマネジメントの 小幡万里子 です。

 

毎日が、いろいろなことがあり、時々、心が凹みそうになります。
大抵は、とても身近で、とても大切な家族のコトであったりします。

映画 翼は心につけて

幼い頃、母が『 翼は心につけて 』という映画に連れて行ってくれたことがあります。
石田えりさんのデビュー作品で、文部省推薦の映画でした。
私が女優を志すきっかけになった映画です。

 

こんな風に、人の心に感動を与える役者になりたい!

そう思った作品でした。

 

原作 関根庄一著 『翼は心につけて―ガンと闘って死んだ十五歳の少女が教えてくれたこと』(一光社)
翼は心につけて

※ この表紙の写真の彫刻について、エピソードがあったように思います。
1977年出版の書籍で、自分の手元にないため、誰の作品であったのか不明ですが、
鈴木亜里さんの生き方とつながる作品であったように記憶しております。


映画鑑賞の前に、この本を読んでいました。

骨肉腫という病気。

そして、15歳という若い年齢の女子が片腕を失っても
未来の自分を夢見て、努力をする姿に感動を受けたのでした。

特に、利き腕の右手を切断したことで、
左手で、水道の蛇口をひねることができず

(今なら、水道の蛇口がレバーの家が多数でしょうが)

タオルを蛇口に巻いて、それを回して蛇口をひねる工夫をする場面が

どれだけ困難なことがあっても、解決策を探すことができる!

そんなことを教えられたように思ったのでした。

 


1978年 配給 共同映画全国系列 「 翼は心につけて 」
主演 石田えり
主題歌 「翼をください」(赤い鳥)
作詞:山上路夫、作曲:村井邦彦

 


鈴木亜里、十五歳。
共働きの両親、弟と団地に住む平凡な女の子。
ある日、テニスの練習中、突然襲った激痛にラケットを落とす亜里。
検査の結果骨肉腫とわかり、医師から他への転移をふせぐため、
右腕の切断の同意を求められた父母は生きる可能性があればと、病名をかくして、亜里に話した。
涙もこぼさずうけ入れる亜里は、その腕にマニキュアをし、指輪をはめてみた。
「学校へなんか戻らない。テニスも出来ないし、勉強なんかしたくない」
と手術後の回復訓練も、友人の見舞いも拒絶する亜里。
だが、そんな亜里も、生命をまもるためにつくす病院に働く人々の姿に次第に心を開く。
「ケースワーカーなら片腕がなくてもできる」
と生きる目標をつかんだ亜里は、今までの遅れを取り戻そうと勉強、機能訓練に猛然といどむ。
あちこちの病室で彼女の明るい笑い声が聞こえた。

だが、医師は両親に「ガンが転移し、治療法はワクチンだけ、それが効かない時は来春まで……」とつげるのだった。
ケースワーカーになるには、どうしても大学へ行かねばと、永和高校(和光高校)を志望したが、今の偏差値では無理と言われた亜里。
しかし、亜里の熱意に、教師は出来る限りの応援を送り、級友も彼女を励まし、ささえるのだった。
努力はむくわれ、亜里は高校入試合格の喜びを手にしたが、亜里の残された僅かな生命も燃えつきようとしていた。

 


亜里さんが、目指していた高校は東京にある 私立和光高校でした。

私の母は、この和光高校の丸木正臣先生が素晴らしい方なので、
滑り止めの私立は、和光高校にしなさい!と言いました。

 

本当に素晴らしい先生です。

母が、この先生のいらっしゃる高校に通えば、きっと、娘にとって素晴らしい高校生活になるだろうと考えてくれたのだと思うと、心から、母の愛情に感謝します。

 

子どもに教育を!というのは、
決して高い学歴を与えることではなく、
我が子にとって、人生の指針となるような教育を与えてくれる場を、
一生懸命に探すことだと思うのです。

 

私は、運よく、自分に大変合った都立高校に進むことができましたが、
もしも、都立の受験に失敗したとしても、和光高校で多くのことを学べたと思っております。

 


 

母が大変に感銘を受けた、和光高校の丸木正臣先生の言葉があります。

 

和光高校 翼の木 翼は心につけて

和光中高校舎の昇降口を出た向かいの植え込みの中に「翼の木」と名づけられたアメリカハナミズキがあります。

この木は1977年に和光中学高等学校がこの真光寺キャンパスに移転したときに、映画「翼は心につけて」の主人公、鈴木亜里さんのご両親から送られたものです。
映画「翼は心につけて」では、和光高校が永和高校という名で登場します。
できたばかりの頃の真光寺キャンパスがロケ地として登場しています。

私どもの和光中学・高校は、多摩丘陵の緑翠したたるような環境の中にある。
桜の花が終わった四月半ば、欅の新緑がむせ返るばかりである。
校門から二百米のアプローチをゆくと、運動場でボールを追う生徒たちの歓声がひびく。
前まで歩くと左手の植え込みの中にある三米ほどの木に、まるで薄い紙をちぎって貼ったような薄紅色の花が七分咲きである。
後ろの雑木林をバックにまるで童話の挿絵のような夢幻の美しさが漂っている。

木の根もとには石碑があり、「翼の木」と彫られている。
アメリカ・ハナミズキである。
新入の中学生・高校生の何人かは、きまって「この木はなんですか」「翼の木というのはどうしてですか」と尋ねてくる。
私はそのときこんな話をすることにしている。

この「翼の木」というのは、有名なフォークソングに「翼を下さい」というのがあるのを知っている。
その歌から「翼」をとって名づけたんだよ。

いまわたしの願いごとが かなうならば翼がほしい
この背中に鳥のように 白い翼つけてください
この大空に翼をひろげ 飛んでゆきたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ ゆきたい

いい歌詞でしょう。とてもすがすがしいよね。

そう一九七六年の四月、もう二十四年も前のことです。ひとりの女の子が、和光高校に入学したんです。
いや厳密にいうと入学することになっていたんです。
その子の名は鈴木亜里といいます。
その子は公立中学校に学ぶ間、ずっと和光への入学を望んでいました。
夜を日に継いで勉強もしていました。

ところがね、不幸にも中三の夏、骨肉腫という悪性の病気にかかってね、骨のガンだよね。
右腕を犯されていたので、北里病院で肩から手術で切断したんです。

右利きの子の子は左手だけになったんだ。

もう和光高校の受験はだめだね、とがっかりしたらしいけど、そのうちに左手があるんだからねと言って、左手で字を書く練習をはじめ、猛烈に勉強したそうです。

十二月、一月の厳しい寒さの中、夜中まで起きてがんばる亜里さんを見ていて、お父さんは、もういいよ、高校なんてどうでもいいじゃないか、と幾度となく言ったそうです。

それでもこの子は、がんばらないと後で悔いが残るからと言ってがんばり続けました。

そうして入学試験では見事に合格しました。
ところがそのときは腕のガンは肺に転移していて、合格発表の一週間後には再び入院することになりました。
彼女の体は全身ガンに犯され、手の施しようはなかったそうです。
亜里さんは、ずっと希望していた和光高校に入学したくて、病気と戦い続けましたが四月十二日の入学式まであと一週間というところでついに力尽きてしまいました。

私たち和光の教師は、あんなに入学したかったのに、亜里さんのことがふびんで仕方がなかったのです。せめてその魂だけでも和光の庭にとどまってほしい、そして亜里さんの生への執念を生徒にも語り継ぎたいと思って、ハナミズキを植え「翼の木」としたんだよ。

生徒たちを前にこんな話をすると、にぎやかな生徒たちが神妙な顔をしてこの話を聞いてくれるのである。
私は生徒に鈴木亜里のことを話しながら、彼女の告別式の日のことを思い出す。

二十四年前の四月六日、彼女の告別式の日である。
春たけなわの美しい日、彼女の家に行く多摩川べりの道は桜の花が咲きほこり、風に花吹雪が雪のように舞っていた。
私は彼女にそっとお別れをしようと思って参列者のかたわらに立った。
その彼女がいつも口ずさんでいた「翼を下さい」の曲が静かに流れていた。

子どもの時 夢みたこと
いまも同じ 夢にみている
この大空に翼をひろげ 飛んでゆきたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ ゆきたい

山上路夫さんの詞、村井邦彦さんの曲で、美しい曲である。
亜里さんはこの歌が好きで、私の別れの日にはこの曲を流してほしいと唯ひとつ遺言したそうである。

私は前に進んで微笑んでいる亜里さんの遺影に花をささげ、こみあげる涙をぬぐった。
その後ぼんやりと流れる雲を仰いでいたら司会者から「和光高校の校長先生、弔辞をお願いします」と声がかかった。 とつぜんのことで、何の準備もないので、いささかあわててしまった。私は亜里さんの写真に向かってとつとつと語りかけた。

「鈴木亜里さん、私は貴方が入学の日を待っていた和光高校の校長です。
…あなたと初めて語るとき、それがあなたとのお別れの日であることに、耐えられない悲しみを抱いています。
…私たち和光の教師はあなたが入学式を目前にして倒れたことを残念に思っています。
…私たちにできることは、貴方の命の火が消えるまで戦った精神を、私たちがひきつぎ、和光の生徒に語りつぐことだと思います。
…亜里さんどうか安らかに眠ってください。…」

入学式の日、新入生の真ん中に亜里さんの両親と、お父さんの胸に抱かれた亜里さんの遺影があった。

丸木正臣和光学園顧問(前和光学園園長)の文章より


翼は心につけて
作詞 : 吉原幸子
作曲 : 三善晃
歌 : 横井久美子


第61回 和光高等学校 入学式式辞

今日、和光高等学校生となる240名の皆さん、入学おめでとう。
最初に、君たちが個性の尊重と自主的精神の育成を建学の精神とする和光高校を選んでくれたことに対して、心からの「ありがとう」を言います。
こうして君たちと出会えたことを本当に嬉しく思います。

ご参列いただいた保護者の皆さん、お子さんのご入学、おめでとうございます。
保護者のみなさんにも心からの「ありがとうございます」を言いたいと思います。
さて、新入生240名をもう少し詳しくみると、123名が和光中学から、117名が他の中学からの出身者です。
ほぼ半々ですが、117名の人たちは出身中学からただ一人和光高校に進んできた人がほとんどです。不安な気持ちでいるのではないでしょうか?
君たちが1日も早く出身中学の違いを越えて和光高校生となれるよう、願っています。

 

君たちは「翼の木」を知っていますか?

 

職員玄関の正面に、その木はあります。もうすぐピンクの花(実は花びらではありません)を咲かせるアメリカハナミズキという木です。
その木の前に「翼の木」と銘打たれた陶板がはめ込まれた石碑が建っています。
石碑の裏には、 鈴木亜里 一九七六年四月五日逝く いのち長らえるだけでなく いのち豊かに と書かれています。

その少女=鈴木亜里さんは、和光高校に合格しながら、入学式を数日後に控えた4月5日にこの世を去りました。
翌1977年、「いのち豊かに」生きた亜里さんのことが『 翼は心につけて 』という本になりました。
78年には映画化されました。
この本と映画は、当時の中学生、高校生そして父母や教師に、深い感動と影響を与えました。
保護者のみなさんで、中学生、高校生のときに本を読み、映画を観た方も少なくないのではないでしょうか?

 

私は30歳、教師生活6年目のときにこの本と映画に出会いました。
私にとって、この本と映画、特に映画は特別なものになりました。
この映画との出会いがなければ、教員をつづけていられなかったのでは、と思えるくらいです。

 

私は、当時、北海道の厚岸水産高校という学校の漁業科1年というクラスの学級担任でした。
入学式の日、私の配った学級通信を即クシャクシャに丸めた生徒が、
「おー、精一杯ツッパルぞ」と宣言しました。
そして、その通りにやってくれました。

 

5月の連休が明けると、荒れに荒れました。
教室がゴミだらけになり、授業が成り立たなくなりました。
同僚や先輩教師から「今年の漁業科1年、ひどいねー」「後にも先にもこんな大変なクラスはないだろうね」と言われるようになりました。
注意すればするほど悪くなっていきました。「こいつらには言葉というものが通じないのではないか?」と思いました。

 

2学期になると彼らのツッパリぶりはさらにエスカレートしました。
私は、その日やられたことを思い出し、明日は何をされるのか考え、眠れぬ夜が続きました。
教員を辞めることも考えました。
そんな日々のつづいていた10月1日、文化祭初日のプログラムとして、和光学園校長・丸木政臣先生の講演がありました。

 

丸木先生は、『翼は心につけて』の鈴木亜里さんの話をしました。
亜里さんが骨肉腫という病気で右腕を肩から切り落としたこと。
「一生家でブラブラしている」と自暴自棄になったこと。
ケースワーカーの人の仕事を見て「将来、ケースワーカーになる」と目標を決めたこと。
左手で字を書く練習をし、受験勉強に励みだしたこと。
和光高校の見学に来たこと……
を話してくれました。

 

しかし、生徒たちの大半は前の椅子の背もたれに手を組み寝る体勢のままでした。
ところが、話が入試の判定会のことに及び、
「ぎりぎり合格点は取ったけれど、鈴木さんは良くて1年の生命なのでしょう?定員がある以上、鈴木さんを不合格にして、他の子を合格にすべきなのではないのか?」
「鈴木さん本人はこれから何十年も生きていくつもりなのではないのか?人間、誰だって自分がいつ死ぬか分からないのではないのか?」
……といった議論の末に、亜里さんを合格にした経緯を丸木先生が話したときに、1つ2つと頭が上がりだしたのでした。

 

そして、普段ツッパッている者ほど、涙を流したのです。

 

私は本当に驚きました。
文化祭後のHRで
「俺は、正直、お前たちのことを
『あいつらには言葉というものが通じないのではないか?』
と思っていた。
でも、違ったよな。
丸木先生の言葉は通じていたよな。
俺は本当に反省している。
これから、お前たちに通じる言葉を持てる教員になりたいと思っている。」
と話しました。

 

生徒たちは「いいぞ、いいぞ。もっと反省しろ」と手をたたき、足を踏み鳴らしました。

私が「その反省を形で表したい。釧路の映画館に『翼は心につけて』が来たら、都合のつくかぎり、お前たちを車に乗せて見に行きたい」とつづけると、さらに拍手と足音は大きくなりました。

 

その2ヵ月後、40人のクラスで30人近くが観に行きました。
私は厚岸・釧路間を4往復しました。

 

それからクラスは大きく変わっていきました。
私の言葉が彼らに通じるようになりました。
本当に私は『翼は心につけて』に救われたのです。
そう思っています。

 

さて、「翼の木」ですが、1976年の和光高校入学式で、丸木先生は亜里さんのことを語りましたが、毎年の入学式でふれるわけにはいかなかったのでしょう。
和光中学高等学校が現在地に移転した後に、
「和光の教師が鈴木亜里さんのことを語り継いでいくために」ということで、「翼の木」を植えたのです。

和光中学3年生は毎年1学期に映画『翼は心につけて』を鑑賞しています。

しかし、和光中学以外の中学から入学した和光高校生にはその機会がないままです。
「なんとかしたい」とは思いつつそのままにしてきましたが、
今回、映画を製作した翼プロダクション・山口社長から「和光でお持ちのDVDの複製と貸し出しについては、先生の判断にお任せします」の了解を得ることができました。
そこで、DVDを複製して、図書室で貸し出せるようにしたいと思っています。

 

和光高等学校入学にあたって、是非、映画『翼は心につけて』を観てほしいと思います。
和光中学出身者とそれ以外の中学出身者の溝を少しでも埋めて、和光高校生活をスタートさせてもらいたいと思います。

 

そして何より、学ぶことの意味を考えてほしいと思います。

 

亜里さんは、ケースワーカーになりたい、社会とつながりたいというところから、苦手な学習に本気で向き合うようになりました。
学ぶことが喜びになっていきました。

 

「学ぶことは、本来、絶対的な喜び」です。

 

和光高校の学びはそこを大切にしています。
その学びの特色は選択講座の多さにあると考えています。
2年生の4つの選択枠には全部で44の講座が設けられています。
その組み合わせ、選びかたはなんと14,520通りになります。
3年生では10の選択枠があります。
講座の総数は78もあります。
10の枠すべてを選択したときには、選びかたは6億通りを超えます。
どの講座を選択するかを考える中で、受け身ではない主体的な学びの姿勢がつくられていくと考えています。

 

和光高校にもルールはありますが、とても少ないです。

 

「どうしてそうしなければならないのか?」と説明できないルールは1つとしてありません。

 

和光高校では、新たなルールを作るときには、生徒会と学校の二者でつくる学校協議会に諮るようにしています。
そこで、「なぜ?」と聞くことができます。意見も言えます。要求を出すこともできます。

 

校則に従うことに馴らされてしまった人には、戸惑うことが 多々あると思います。
時あるごとに「和光高校はなぜ、ルールが少ないのか?」を立ち止まって考えるようにしてください。

 

自分の頭で考え 行動できる人になってください。

 

校則や罰則で縛らない 和光の自由はそのためにあるのです。

 

さあ、和光高校生活のスタートです。
より良い学校づくりのため、力を合わせていきましょう。

 

2010年4月9日
和光高等学校 校長 両角 憲二

 


私の生き方は、このような学校をすすめてくれた

今は亡き母にあります。

 

そして、このように私も子どもたちを育てています。

今は、理解できなくても、これが私の生き方です。

翼は心につけて

 

ビジネスにおいても これが私の生きざまです。

 

※ちなみに、和光高校の丸木正臣先生の言葉の中にある「夜を日に継いで」とは、
「孟子」の離婁下からの言葉で、「よをひについで」= 昼夜の別なく、続けてある物事をする。という意味です。

 

この出会いと、時間を共有してくださった方がたに 心から感謝です。
今日も一日…ありがとう。

 

 


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 

特に 映画の力 を テーマに記した 拙文については こちら を ご高覧いただけましたら幸いです。

 

(PHOTO:Luke Michael

 

 

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