季節の変わり目・・・
まるで、過ぎさる季節と来たる季節との追いかけっこをしているかのように感じます。
暑さと寒さがせめぎ合う時間を目の当たりにしながら、雨がとても冷たくなり、自然の天候が人に与える影響の大きさに、ハッとする瞬間。
彼岸は、春分・秋分と、昼と夜の長さが同じで、ある日を境に、人のあの世とこの世を、暖かさと寒さの季節を切り分ける言葉として存在しています。
私は、なぜ、変わることを好まないのだろう・・・
だからなのか。
日本人の移ろいやすい姿を、大変に卑怯に感じたり、節操がないと思ったりしてしまうのです。
ひとところで、大地に足をしっかりとつく人を、私は信じることができる一方で、世の中に多くいるは、あっちもこっちもと、風見鶏のようにその身を変化する人のことを節操がないと思ってしまうのです。
節操がないという言葉を、ひとところにいられない人と思っている人も多いようですが、節操とは、信念を固く守ること。
節操のない人とは、信念のない人をいいます。
信念とは、自分の固く信じて疑わない心、行動の基礎となる態度をいいます。
地震という大きなエネルギーの力の歪みではなくても、あらゆる場所で、がけ崩れ、土砂崩れなど、崩れる土地が存在します。
幸田露伴の次女、幸田文さんが書いた随筆『崩れ』(安倍川の崖の崩落跡を見た事をキッカケに、70歳を過ぎて「崩れ」に取り憑かれ、日本各地の崩れた場所を訪れたことを書いたもの)の中で、
「なぜ、崩れるのですか?」という問いを専門家にかけました。
間を置いて、ある地質学者が答えました。
「地質的に弱いところといいましょうかねえ」
この言葉に、幸田文さんは、こう感じたのだそうです。
「不思議なことにこの一言が、鎮静剤のように効いて私は落着いた。はっきりいえば、弱い、という一語がはっとするほど響いてきた。私はそれまで崩壊を欠落、破損、減少、滅亡というような、目で見る表面のことにのみ思っていた。弱い、は目に見る表面の現象をいっているのではない。地下の深さをいい、なぜ弱いかを指してその成因までにまで及ぶ、重厚な意味を含んでいる言葉なのだった。」
そして、「巨大なエネルギーは弱さから発している」ということに気づいたと。
私が感じる、日本人の移ろいやすさを卑怯に感じるのは、きっと「弱い」ゆえに、節操がなく信念をもてない人を許容できないからなのでしょう。
そして、なぜ、許容できないかといえば、この「弱い」人たちが集まることで、巨大な「崩れ」のエネルギーを作り出してしまうということを、なにか大きな感覚の中で、怖れているからなのだろうと思うのです。
見えていないと思って、弱いものたちが集まり、人間が生きる上で守らねばならない本質を腐らせています。
時間は限られ、日本人は数百年のうちに、その遺伝子を消滅させてしまうかもしれません。
すべては、多くの弱い者たちが発していること。
弱い者へのやさしさがないと言われるかもしれません。
しかし、今、日本が抱えている問題や課題は、弱い者が弱い者を正当化して、弱さの負のエネルギーを巨大化させてしまっているからなのだと感じるのです。
強い信念をもつ人は、烏合の衆の仲間入りはしません。
ほんとうに自立できる自分をもつ人は、一人でも闘っています。
けれど、もはや、甘やかされた弱い者たちを捨て、強い揺るがない信念もつ人たちのエネルギーを集めなければ、この国は消えてしまうのです。
だから、弱くても、弱い者で集まった負の巨大なエネルギーに巻き込まれたくない私は、強い信念を決して曲げない自分でありたいと思うのです。
季節の追いかけっこは、四季にそって、循環を繰り返していきます。
その自然の循環を狂わすほどに、弱い人々たちは、マイナスのエネルギーを作り出しているのです。
寒い冬であっても、信念をまっすぐに立てる生き方を貫く英雄たちをみつけることも集めることも、大きな困難ではあるけれど、その大きな壁に、歯を食いしばって、必死で立ち向かっていかなければ・・・と、冷たい雨に震えながら、変わらぬ自分でありたいと、自分に叱咤激励しています。
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