記憶の黙示録

文盲

2001年8月15日

文盲 という言葉 は 差別用語 とされているのでしょうか?

大正生まれの祖母は 私が 高校1年の冬に 突然倒れ 還らぬ人となった。

 

享年 65歳

 

私は 祖母が 大好きだった

おばあちゃんは 私にとって 絶対に裏切らない存在 だった。

幼い頃から よく熱を出し お腹を壊し 寝込むことの多かった私。

文盲 おばあちゃん

祖母が生きてる時でさえ 熱にうなされながら

「おばあちゃん。 助けて」

と 祈ったものだった。

ある種、私にとって 神仏のような存在 であったのかもしれない。

 


その祖母に 私は 手紙を書いて送っていた。

祖母は 文盲 であった

平仮名さえも読めない。

 

私には 8歳年上の叔母がいる。

 

亡くなった母の 7人姉弟妹の 末っ子。

 

母とは ひと回り 12歳違う。

 

その叔母は 私にとっては 叔母というより お姉さんのような存在だった。

 

祖母は いつも叔母に 私からの手紙を読んでもらい、 電話で返事をくれた。

 


 

母は 戦後生まれであるが

学校へ行くよりも 家の仕事を手伝え!

学校に通わせてもらえなかった。

 

学校へは 弁当を持って行かねばならない。

その弁当を用意出来なかった時代でもあった。

 

母は、お友達の家から ピアノの音が

流れてくることが 羨ましかったと 言っていた。

 

私と妹は、小さい頃からピアノを習わされていた。

 

この曲は こう弾かなくては~という 先生の執着があり、

私は嫌々通っていた。

 

時に 先生の言葉に傷つき、

涙を落とすこともあった。

 

それでも、娘にピアノを弾かせたいと願う

母の念いは強かった。

母は 満足に学校へも行けず、

自分が学力のない人間だと恥じていた。

 

字が下手で恥ずかしいと、

これまた 私たち姉妹は 書道塾へ 通わされた。

氏徳野大空 氏が興した 玄潮会という書道教室に

小学1年生から中学3年生まで

毎週土曜日の午後(当時は、小中学校の授業は土曜日は午前授業であった)

世田谷区松原5丁目の自宅から徒歩5分ほどの一方通行の逆行した道を通った。

小学校低学年から、毎年、賞をいただき、

高学年では、その書道塾では、先生から 一番弟子のような扱いを受けた。

年子の1歳年下の妹は、常に姉の私を競争相手と思っていたようで

途中で、書道教室に通うことを辞めた。

私は、母と先生からの期待を裏切ることができず

高校受験を理由に辞めるまで、中学時代の部活動(バドミントン部)とできるだけ両立し、

辞める時は 三段 をもらっていた 。

 

文盲 慈愛

 

そこで 私は 幾度か 大きな賞をもらい、

母は、いつも 私に 手紙の代筆を頼んでいた。

 


 

昭和の戦後生まれの 母である。

 

それでも、こういう状況の人間はたくさんいた。

 

だから、私が 優等生でいることは 母の喜びであった。

 

妹は いち早く 自分を持ち始め、

私だけが 一生懸命に その役を引き継いだ。

 

祖母は 「まりちゃんのお手紙を 自分で読めるようになりたい。」 と 言い続けていた。

 

そして母も、

後年、書道の先生につき 指導を受けたり、

仕事上 必要な資格試験を受け続け 3年目にして 資格を取った。

 

そういう 祖母や母の姿を 見ていた。

たとえ 文盲であっても、

誰かの手紙を読みたい

その気持ちが大切なのだと思う。

 

それが 学びの始まりなのだと思う

 

母も 父の仕事の手助けになりたいと、

寝る間も惜しんで勉強し、念願の資格を 手に入れた。

その姿も見ていた。

資格を取った翌年。

母は逝った。

 


 

享年 54歳

 

字を読めなかった祖母の分も、

たくさんのことを 知りたいと思う。

 

50歳を過ぎてなお 資格を取るという目的を持ち、

そのために努力した 母を裏切ることは 出来ない。

 

65歳で 亡くなった祖母。

54歳で 亡くなった母。

 

次は私…

 

常に そういう思いがある。

 

20代で 胸にしこりをみつけた。

 

とりあえず 今を生きていられることに 感謝している。

 

幼い頃から 何を 根拠か 分からないが

「長生きしない」 と 言われていた。

 

30歳の自分 を 想像することなど出来なかった。

 

でも 今 生きていられる

 

知りたくても 知り得る術を 持たなかった

私を 生み出した 過去の命を 知る限り

その術を持つ私は 学び続けなければならないのだと思う。

 

そして、その姿を 継ぎの命に 伝えなければならないのだと思う。

 


 謝辞

長文お読みいただきありがとうございました。

母と私と弟の生まれた冬を思い起こすような冷たく厳しい
つらい記憶の記録でございますが、家族であった時間にある
たくさんの愛情を決して忘れることはできません。

お時間あれば、私が生まれ育った大切な家族の話をご高覧ください。
記憶の黙示録

昭和22年1月2日生まれの母の姉である伯母に、母の通夜か告別式の日に
(忌日 2001年2月11日)

「まりちゃん。ママのことを書いて。ママがどんな風に生きてきたか。まりちゃんにしか書けない。」

その約束を、少しずつでも果たしたいと思っています。


成田山書道美術館 玄潮会創設者
書のことば、書のかたち 徳野大空「草原」

文盲 徳野大空「草原」

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