記憶の黙示録

弟の誕生

2010年2月22日

 

弟の誕生 は ほんとうに うれしかった。

弟は 5歳年下

弟の誕生 日は

真冬の 寒い 2月のある日のことでした。

 

私が 5歳になって 3日ばかり 過ぎた日。

 

記憶も 定かではありません

母が 突然いなくなった 不安な感覚は

今でも 時々 私を 震えさせます。

 

その日は 父が珍しく

私と 妹のため に早く 帰って来ていたような 気がします。

 

夜中に ふと 目を覚ますと

いるはずの父親が いませんでした。

妹は ぐっすりと 私の横で 眠っていました。

私は 幼い時、とても 臆病で 神経が 細く

自分の キャパシティを 超える 出来事への 対応が

すんなりと ソツなく 出来るような

賢い子どもでは ありませんでした。

(妹は そういう点で 肝が据わって 賢い 人間です)

 

親のいない 真夜中 という 恐怖に 耐えきれず

泣きじゃくるうちに 胸がつかえ 嘔吐物を 吐き出し

パジャマ姿のまま 裸足で

真冬の 近所のパン屋の おばちゃんの家に 駆け込みました。

 


 

COCORO の 交流

当時は 今のような 寒々しい 近所付き合いではなく

助け合いがあり

子どもは 近所の大人も 共に育てる

そんな わざわざ言葉に 出さずとも

ごく自然に 寄り添う 付き合いを していました。

 

パン屋の おばちゃんの 売る

カスタードの入ったチョコレートパンが 好物で

毎日のように

おばちゃんから パンを買い

お菓子を買う・・・

優しくて 体格もよく 安心できる おばちゃんでした。

 

おばちゃんの家には すでに家を出た

お兄ちゃん 二人の子どもが いました。

 

それだけに 女の子二人の 私達 姉妹を

余計に 可愛がってくれていたのかもしれません。

 

当時、風呂付きの アパートや 長屋はなく

私達は 銭湯に 通っていました。

そのため 母の月経中は おばちゃんが、

私と妹を 銭湯に連れて行き、

髪を洗ってくれたり 身体を洗ってくれたりしました。

 

母とは違う その洗い方に こそばゆさと恥じらいと、

そして 嬉しさを 感じることもありました。

 


 

その 真冬の晩

おばちゃんは 泣きじゃくる私を

おばちゃんの布団に招き入れ

「大丈夫。大丈夫」

と私を撫で

安心させてくれ 優しく 寝かしつけてくれました。

私は 我が子にさえも

気安く 「大丈夫」 と 口に出したりしません。

自分が なんとかしてやれるだけの

自信を持ったときにしか

口に出しません。

 

だから子ども達には

冷たい母と 思えることもあるでしょうが

口に出した言葉には

魂が宿っていると 思っている 私には

本当に 自分の出来ること

自分が 思っていることしか 言いません。

その点では 子どもたちも

母の言葉には 嘘は無いと 思ってくれています。

 


 

COCORO からの 大丈夫

そのおばちゃんの 「大丈夫」 は

信頼出来る 「大丈夫」 という言葉でした。

 

翌早朝、父が 血相を変えて

パン屋さんの裏の ドアを叩き

「うちの子は 来てるか!」

と 怒鳴りました。

 

私が 出ると 頬を 平手打ちされました。

 

「この野郎! 何を勝手なことをしてるんだ! しかも家の中を あんなに汚して!」

 

おばちゃんは 私を かばい

「こんな 小さな子どもを 残して 何を していたの!」

と 詰め寄りました。

 

父は アパートの 二階に住む 会社員の 若い男性達と

麻雀を していたのだ と 答えました。

 

家に帰ると 私の 汚した 嘔吐物は そのままで、

5歳になったばかりの私は 泣きながら 新聞紙で それを押さえ、

雑巾で 何度も何度も 畳の上を 拭きました。

 

「まったく汚ねえな! 臭い臭い!」

何度も何度も そう言われ、

再び 嗚咽で しゃくりあげそうに なりながら

雑巾を 洗っては 絞り 畳を 拭き、

洗っては 絞り 畳を 拭き 〜〜〜

5歳の私は ひたすらに 作業を 続けていました。

 

1つ下の 妹は

「寝てれば よかったのに。 お外に 行くから いけないんだよ。」 と

翌月に 4つを 迎える 幼児とは 思えない言葉を はけるような、

冷静で 沈着な 子どもでした。

 

妹だけは 私達 きょうだいの中で

常に 父から

「なかなか 見込みのある ヤツ」

と 思われていました。

 

彼女が 男だったら きっと この家も 崩壊することなく、

泣き虫姉弟に 挟まれた

堂々たる長男 という 役割を 果たしていたのかもしれません。

 


 

ま、人生はままならぬもの。

そうそう思う通りに ならないものです

 


 

母が 男の子を産んだ と 知って

父が 近所中を

「男が生まれた! 男が生まれた!」

と 嬉しそうに 叫びながら 喜んでいた姿は

私が もっと大きくなった時にも

近所での語りぐさに なっていたほどです。

それは 父なりの子どもへの

愛情であったのかもしれません。

 

私を 叩いたことも

いなくなった娘への心配が

そうさせたのかもしれません。

 

ただ 惜しむらくは、

この子の気持ちは どうだったんだろう〜と

想像出来るほどには

父は 熟成された大人では なかったのだと 思います。

 


 

私は 母が 20歳になったばかり

父が 25歳の時に 生まれた子どもです。

父は 籍こそ入れていませんでしたが

地元の名士の娘と 祝言を挙げていました。

そうした中で 母の妊娠。

19歳の母は 私をお腹に抱えたまま 海へ入水し

私とともに 死を選ぼうとしました。

それを止め、全てを捨て

母と 生きることを選んだ 父でした。

 

父は 酔うと

「お前は 生まれてこなかったかもしれない子だ」

と 私に吐き出し、

「お前がいなければ 左うちわの生活をしていたんだ」

と 言うことも しばしばでした。

 

母は

「そんなことを 子どもの前で 言うことではないでしょう」

と 父を たしなめていましたが

そんな言葉には おかまいなしの父親でした。

その言葉を

生まれた直後、髄膜炎になった 私が

生死を彷徨ったことかと 思っていましたが

それでも、何か腑に落ちない嫌悪感は

幼いながらに 感じていました。

 


 

そうではなかったことを

周囲の人の言葉などから

思春期を過ぎた頃に 知りました。

それは 高校入学の時に取り寄せた

戸籍謄本に 私の出生届とともに

母との入籍を 届けていたことだったかもしれません。

母は 後年

「最初の結婚も 入籍していなかったから

戸籍が 汚れなかったし、

もしかして ママとの結婚も

ダメになったら 入籍していなければ

戸籍は 汚れない って 思っていたのかしら?」

などと 冗談めかして 話していましたが、

あながち 冗談では なかったかもしれません。

 


 

そうした 喪失感を ひたすらに感じた 夜を過ぎ、

弟は 母とともに 我が家へ 帰ってきました。

母は その時、

この分娩費用と 入院費を 払えるかしら

と いう不安で いっぱいだったようですが。

私が 思春期に 母は 再び 妊娠しました。

私が 16歳の時だったかと 思います。

 

母は 36歳。

 

今ならば その年で 初産も 珍しくはありませんが。

母は、はっきりと 言いませんでしたが、

その戸惑いは 大きかったと思います。

 


 

子どもの COCORO

娘の お友達の お母さんが

12歳離れたお子さんを 出産しました。

お母様は 私よりも 年長で、

彼女は 最初の子から

数回の流産を経ての 念願の出産でした。

私達 母親は

「よかったね。 子は宝ですもの。」

と 喜び合いましたが、

娘たち 12歳の少女達は

「自分のお母さんが 今頃 赤ちゃんを産んだら 気持ち悪い」

と 言いました。

それが 残酷な 言葉であっても

思春期の少女の 素直な思い なのかもしれません。

 


 

私は 母の その状態を

なんとなく 感じながら 過ごしていました。

母もまた、

私達きょうだいの 心持ちを

なんとなく 感じながら 過ごしていたのかもしれません。

 

数日後、学校から帰ると

母は 布団で 寝込んでいました。

どんよりと 暗い暗い雲がかかっているような姿でした。

母は 子どもを堕ろしたのだ と 直感しました。

 

父は その日の夜に

私達きょうだいを集め、

「せっかく授かった命だが 残念なことに 流産した。

あいつは すっかり 身体も心も 弱くなっているから

きょうだいで しっかり支えてやってくれ。」

と 言いました。

 

本気で そう信じていたのか 分かりませんが、

少し 狡賢くなった 私は

「はい」

と 返事を返しました。

 


 

優しい COCORO

高校2年生であった 私は、

当時 席を並べていた

無口で 頼りがいのある 優しさ溢れる男子生徒に

「うちの親。 妊娠したみたいで、 なんだか複雑なんだけど〜」

半分 命の誕生を喜び、

半分 恥ずかしい気持ちの混じった 思いで

彼にだけは こっそり 話していました。

彼は 「へえ〜」 と 言葉少なく、

それでも 優しいまなざしを 返してくれました。

それから 数日して 今回のことを

「なんかね〜。
どうも流産しちゃったって言うんだけど
やっぱり この年で恥ずかしかったから。
赤ちゃんを 堕ろしちゃたのかもしれないんだよね〜。」

 

そう話す と急に 目頭が熱くなり

ポトンと 涙が 落ちてしまいました。

教室の 一番後ろの席に座っていた

私達に 気付く人は いませんでした。

彼は そっとハンカチを 貸してくれました。

 

なんで、

親友と呼べる女の子にも 話せなかったことを

こういうメンタルチックな話を

恋人でもない

ただ隣の席になっただけの彼に

話すことができたのか

今でも よく分かりません。

 

でも、この時期の 私の思いを

(本当に 何も 感じていなかったのかもしれないけど)

淡々と聞いてくれ ハンカチを 差し出してくれ、

その後も なにも言わなかった彼に 今も 感謝しています。

 


 

母の死後

母の親友が

「あの時の妊娠 覚えている?」

と 私に 聞いてきました。

「流産したって 言ってたけど、
中絶したのかな って思ってた」

「あの時、どうしても 生みたくないって 言ってたの。
もう お父さんの子どもなんか 生みたくないって。
おばちゃんが 中絶同意書に
男の人の字を 真似して 署名したんだ。」

 

やっぱり、そうだったのか

と 逆に 納得し 安心出来た面も ありました。

もうひとつ 私には 弟の誕生 があったのだ ・・・

 

弟は 道を歩いていた時に

「あなたには 水子が 憑いてる」

と 声をかけられたことが あったそうです。

彼も また もうひとつの 弟の誕生 を 自分に課したのかもしれません

 

父は 母の死後

「あの時の子どもが 流産しなければ
(亡くなった弟に) 弟妹がいて
少しは自 立していたかもしれない。
あいつ(母)も 息子(弟)の死で
がっくりすることなく生き抜いたかもしれない。」

と 相変わらず とんちんかんなことを 言い出しました。

 

後ろを 振り返っても 仕方がないのに。

自分の 都合の良いように 解釈出来る この人は

なんて 愚かでなんて 幸せな人だろう。

 


 

弟の誕生

弟は 水子 という言葉に とても こだわりを 持っていました。

彼の 生き方は

途中から

誰かの分も

生きているような

生き方に

変わっていました。

それが このことに あったのかは

誰にも 分かりませんが

ただ 生まれおちることのなかった 命が

私だったかもしれないことを 思うと

その 命の分

そして

若くして 亡くなった 弟の 命の分も

自分を 粗末にしては いけないと 思うのです。


私は 子どもを 家において 出ることに

罪悪感が つきまといます。

それは きっと この時の 経験が

ずっと 染み付いているからなのだと 思います。

少しずつ 子どもは 大人に 移行しつつあります。

少しずつ 少しずつ 私も

守るべき と 思う気持ちから 抜け出して、

彼女達の冒険を 見守る気持ちに

変わらなければならない と思っております。

 


お時間ございます方は、

過COノCO途 にある THE WAY WE WERE – 追憶

私の 忘れてはならない 記憶の黙示録 の 拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 


亡き弟が とても大切に思ってくれた 長女 が

亡き母の 弟と共に 新規事業を起こすために

奇遇にも 長女の生誕の年に 会社を創業しました。

それが ピュア株式会社 です。

手前味噌ではございますが とても優しく そして 精神の美しい PURE な 女性に育ってくれました。

亡き母 亡き弟 の 愛情を一身に受け 素直に成長した結果と

二人の愛情の深さに 心から感謝しています。

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