中学1年 家庭科
「消費生活と環境」
現代の生活の基盤となっている消費。
その消費生活を支える物資やサービスについて導入の授業。
先日の、中3の社会(公民的分野)にもつながる授業であった。
「家庭科」のイメージは、調理実習や
被服ではミシンを使った作品作りなどが
私の時代の「家庭科」であった。
しかし、この中学校の現状で
包丁を使った調理や、ミシンという機械を使った被服製作は
安心して、生徒に与えてやれる授業ではないらしい。
以前、中2の理科の実験をご覧になった中1の理科担当の先生が
「生徒があの状況で、私だったら、怖くて実験はやらせられない」
と、言われた言葉が印象に残っている。
本来ならば、生徒に作る喜び
理科などは、実験を通じて発見する喜びを
先生がたが与えてやりたくとも、生徒の状況では
安心を優先させて、できない授業になってしまうということが
大変、矛盾に満ちた苦しみと言えるのであろう。
生活の中で、生産より、消費とは切っても切れない現代。
カード破産や、モノへの欲望の飽くなき追求のなされる今、
消費についてのリスクとメリットについて
「家庭科」という授業の役割は、とても大切な時間だと思った。
それ以上に、家庭科、理科、社会といった教科には
学習に入る前に、家庭でどれだけの経験をさせてきたかで
生徒の意識も多いに異なるのではないかと感じる。
家庭という子どもが安心して過ごせる場を
親として充分に与えてやることが大切なのではないかと
学校の現状を伺い知る度に
溜め息をつきながら、反省するのである。
先生がたは、家庭環境が生徒に
プラスの影響をもたらさない場所だとしても
学校生活の中で、教師がその生徒の精神面もフォローして
学校生活を安定させたものにしようと
努力されている。
ただ。
それが、本来の学校の役割なのであろうか?
とも思ってしまうし
だからといって、目の前の未来を
見限ることができないのは
教師という職業を選択した人間としての
元々、持っている人間的大きさでもあるのだろう。
学校だからこそ許されること
世の中に出てからでは許されないこと
それを学ぶことの出来る最後のモラトリアムが
中学生なのかもしれない。
高校生になると、一定のレベルの高校では
世の中のしくみを前提に学校生活は成り立っていく。
底辺の人間を集めた高校では
もう一度、中学の勉強からやり直しを始め
さらに、人間としてのしつけもやり直す場にもなっている。
そのような受け皿が、あるのだということも知りながら
中学教育のこれからを考えていくことも
ひとつの妙案なのかもしれない。
(2006年 11月)
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