『紫式部日記』の中の源氏物語
なぜ、『源氏物語』が今年、千年紀なのか?
『紫式部日記』
「五十日(いか)の祝」が
その根拠として上げられた。
『紫式部日記』は、紫式部の「殿」である「道長」が
娘「宮」さま「彰子」と「上」さまである「一条天皇」の間に
ようやく生まれた「敦成親王」の成長記録として
『源氏物語』で名高い紫式部に書かせるよう指示した書物である。
この『紫式部日記』も、『紫式部日記』という
題名をつけて書かれたものではない。
古典文学は、最初に作品ありき。
その中身が流布し、題名は後づけされたもの。
『源氏物語』も光源氏のお話だから
『源氏物語』として今に伝わっているのだ。
『紫式部日記』では「源氏の物語」として表されている。
紫式部という名も
本名は「藤原某子」であったのだ
と、想像出来るのだが
『源氏物語』に出てくる「紫の上」の鮮烈さゆえに
紫式部という愛称がつけられ
それが今日、紫式部として存在することとなった。
さて、その紫式部。
殿である道長は、彰子のお腹の子は
絶対に男の子だと確信している。
その確信は、なんぞや?
13才で一条天皇に嫁ぎ
中宮となった彰子は
ずっと、子どもに恵まれなかった。
そこで、この寛弘五年の前年。
42才の道長は(この時代、42歳といえば大変なお年寄りである)
彰子の男子懐妊を願い、夏に吉野の金峰山に
子を授かるように祈願にいった。
そこで、彰子が男子を宿すというお告げを受け
彰子が懐妊するやいなや
「世継ぎに他ならん。この後世に残る歴史的快挙を留めん」
と、紫式部に、言ったかどうかは定かではないけれど
道長一門の繁栄を、名高き『源氏物語』の作者
紫式部に書き残させようとしたのである。
この「五十日の祝」の中で
左衛門の督、「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」とうかがひたまふ。源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。
藤原公任が、紫式部を『源氏物語』の若紫に喩えている。
(かなり、薹(とう)が立った若紫ではあるが)
すでに、この時に、「紫の物語」は
世の話題となっていたと推測される。
当時、女官の間で流行していた物語が
藤原公任という当時従二位中納言で大納言まで上った
知的レベルも階級も高い特権階級にいた男性の鑑賞にも
堪え得る作品であったことを吐露している。
当時の女性が書けると言われた漢字は
せいぜい、百字程度と言われている。
漢学者である父、藤原為時が息子の惟規(のぶのり)に
漢学を教えている横で、耳をそばだてていた紫式部は
弟よりも早く深く漢学を吸収し
ものを書く才能に長けていたのである。
「お前が男だったら良かったのに〜」と
現代の世でもよくある話で
しかし、それを大きな声で言うと
今は、ジェンダー関係の叱責を受けるかもしれないが。
あまりに、優し過ぎる弟を持った姉としては
畏れ多いことだけれど
この紫式部家族の在り方と、どことなく
重なる部分を感じたりもしてしまう。
源氏千年紀のひとつめの根拠として
今日は、ここまでにしておこう。
この寛弘五年が、西暦で表すと1008年。
だから、今年、源氏千年紀なんですね〜。
終わりになって、西暦を持ち出すところが
もったいぶってて有り難く感じるでしょう。
相変わらず、お茶目な先生(教授になられていらっしゃるが)
まだまだ、楽しい時間は続くのであった。
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