母校 學び舎 で 同窓生に向けた講座が 同窓会主催で行なわれる。
長い長い歳月
それが続くには
この 學び舎 を卒業した者の
生涯、学び続ける気持ちが
続いているからなのだと思う。
卒業してすぐの年
子どもが生まれ、
実家近くに住むことになり
(といっても隣県ではあったが)
子どもを数時間預かってもらえるようになった頃
そして、子どもたちがそれぞれに
自分自身で、土曜の午後の数時間を過ごせるようになった今
断続的ではあっても
学べる環境が整った時に
学ぶための自分の時間が持てるようになった時に
いつでも、広く両手を開いて
迎え入れてくる
学ぶ場を用意してくれている
我が母校を誇りに思う。
ほぼ 月に一度の 年10回の講座
教授や講師の先生がたが 数人。
年間のテーマに沿って、
ご自身の研究を土台に
普段接している 若い脳をもつ生徒さんとは異なる
ちょっと、頑なになった脳や感性をもつ
私たちアダルトレディー(?)に向けて
易しく噛み砕いた、肩の力を抜いたお話をしてくださる。
學び舎 での はじまりの2回は
私も直接に講義を受けた
当時、助教授の先生で
現在は教授になられ
我が母校の 国文学科を率いてくださっていらっしゃる
中古文学専攻の先生。
『源氏物語』の研究を続けられ
「この千年紀の後は、もう無いですから
千百年には、この中の誰も生きていませんから
源氏は、もう厭きたので、
今年が最後の源氏でいきます」
と、笑いながらお話しくださった。
秋には、『無名草子』を用いた「宇治十帖」にポイントを置いた講義。
初冬には、江戸文学を専門とされる先生の
江戸文学と『源氏物語』の関わりを
『好色一代男』を用いての講義。
冬には、
与謝野晶子
谷崎潤一郎
円地文子など
現代語訳の『源氏物語』を 紐解き
「夢の浮橋」考として、
定家
谷崎
倉橋由美子を
取り上げるそうで、
ワクワクしている。
そして春には、
柳亭種彦の『偽紫田舎源氏』や
翻訳版『源氏物語』の講義をいただく。
『偽紫田舎源氏』は、
『源氏物語』をベースにした 大奥の恋愛話。
黄表紙と呼ばれる、
絵と文章で成り立っている
現在の 漫画の元祖 とも思われる作品。
平仮名で書かれているので
寺子屋(江戸では手跡指南)さえ でていれば
誰でも 読むことができ
当時、江戸のほぼ全員が読んだと言われる ミリオンセラー。
連載途中に 種彦が病気だという噂が広まり
江戸中の女性達が「続きが読めなくなる」と困ると
種彦の病気治癒を願って、
願掛をしたというエピソードも。
『源氏物語』って
千年も前の 化石の物語と
思われているかもしれないけれど
江戸時代も 平成のこの世も
現代版源氏物語は そこかしこで、今も息づいており
女の心というものは 千年経っても
奥底に流れているものは 変わらないのかもしれないな〜と
そんなことを思った 最初の講義だった。
先生がたが、どんな風に『源氏物語』を料理して
アダルトレディーの(!) 私たちに差し出してくださるのか
とっても興味のあるところ。
お勉強の引き出しを 増やしていきたいなと思う。
私の COCORO を形作った出来事を
For Whom the Bell Tolls 誰がために鐘は鳴る といカテゴリーでご紹介しています。
私のあらゆる出合いが なにか一つでも 誰かのために役立つことを願って。
その中の 源氏千年紀 は、
敬遠されがちな古文でも、
今を 生きている人たちと
なんら 変わらないこともあるんだ ってことを
後世の人たちに 面白がってもらいたいなと思います。
そういうことを書いている 私 のことも
面白がってもらえると 嬉しいな。
黄表紙 偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)
柳亭種彦 (りゅうていたねひこ)著 歌川国貞(うたがわくにさだ)画 文政12年(1829)~天保13年(1842) 加賀文庫 加12369
平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』の世界を室町時代に置き換えて描いた合巻の代表的な作品です。
合巻とは草双紙の一種で、赤本、黒本、青本、黄表紙と展開してきた江戸文芸をさらに発展させ、
それまで5丁1冊としていた本を、数冊分合わせて1冊とした絵草紙のことで、
長編作品が作られる一つのきっかけとなりました。
『偐紫田舎源氏』は源氏物語の世界を絵草紙として翻案した長編作品で、
文政12年(1829)から38編(各編4冊)が刊行されました。
著者・柳亭種彦(1783~1842)は旗本の生まれで国学も学んだ人物で、
既存の『源氏物語』の注釈書、俗解書などを参考にしながら、
歌舞伎・浄瑠璃的な世界を取り入れ、
推理小説仕立ての作品として書き上げたのが、
この『偐紫田舎源氏』です。
紹介した場面は二編上下冊の表紙で、
下冊に結び文の艶書に見せかけて藤の枝につけた手紙を差し出す主人公光氏(みつうじ)を、
上冊にそれを受け取る被布姿の藤の方(藤壺の女御)を描いています。
天保13年(1842)、絶版処分を受けましたが、
その理由の一つに、主人公の光源氏にあたる光氏の生活が、
当時の将軍・家斉(いえなり)と大奥を模したのではないかと噂され、
絶版処分となったという説もあります。
草稿として 39編40編が残っています。
(東京都立図書館 江戸 東京 デジタルミュージアム)
江戸時代の文化面での大きな特色は、
注1 コマーシャルベースの出版 (商業ベースの出版)が始まったことです。
これによって、文化はより一層発展し、文字を読み書きする機会が多くなってきました。
寺子屋が急増し、有名な師匠のもとには、五百人の子供達がいたということです。
今まで字を知らなかった子供達が字を覚え、本を読む楽しさを知るようになりました。
このような子供達が手にした本、それが草双紙です。
草双紙というのは、江戸時代の中頃から明治の初めにかけて、庶民のあいだで流行した絵入り読み物の総称です。
『南総里見八犬伝』の作者として名高い曲亭馬琴は、『近世物之本江戸作者部類』の中で、
「世間で臭草紙といわれているこの冊子は、表紙にいたるまで、ほご紙などを薄く漉きかえした紙を使い質の悪い墨のにおいがするので、臭草紙というのだ」と説明しています。
現代風に言えば、再生紙を使っていたわけですね。
このことからも、江戸時代には、紙のリサイクルが徹底して行われていたことが分かります。
このほかに、草仮名で書かれた草紙の意味だともいわれています。
さて、この草双紙ですが、表紙の色や製本の仕方によって、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻 に分けることができます。
まず、赤本 ですが、延宝頃から享保頃にかけて流行した赤い表紙の子供向けの絵本です。
古くは小本の形で出版されましたが、宝永頃からは中本形式(縦約一八センチ、横約一三センチ)となり、
丁数も初めのころは一定していませんが、だんだんと一冊五丁に統一されてきました。
現在の数え方では、十頁ということになります。
初期の赤本は、上部を界線で仕切って、その上に文章、下に絵という形式が多いようですが、だんだんと絵の中に文章が入り込むようになってきました。
文章と絵の割合は、三対七ぐらいでしょうか。
このように、赤本は絵を主体としたものですから、文章の作者は不明ですが、画師が自ら執筆したものがほとんどだと考えられます。
この赤本も、表紙に使う丹の値段が高くなり、やがて黒一色の表紙の黒本や、萌黄色の表紙の青本に移行しますが、
黒本と青本の区別ははっきりしていなくて、現在では同類として扱われています。
さて、この黒本・青本ですが、延享頃から安永頃にかけて流行しました。
毎丁絵の中に文字が入り込む形式をとり、中本五丁を一冊として、一ないし二・三・五冊仕立てで出版されています。
内容は、ほとんどが歌舞伎、浄瑠璃や歴史、伝記ものなどの粗筋を題材にしたものです。
黒本・青本の文章と絵の割合は、四対六ぐらいです。
次に現れるのが、表紙が黄色いことからズバリそのように呼ばれる「黄表紙」です。
安永四年に刊行された『金々先生栄花夢』(恋川春町作画)から『雷太郎強悪物語』(式亭三馬作、歌川豊国画)の出版された文化三年までの草双紙の総称です。
同じく中本形式で、五丁を一巻一冊として通常二~三巻からなっています。
この黄表紙本は、一冊八文前後で売られていたようです。
おそらく皆さんが『ジャンプ』や『マガジン』などの漫画雑誌を買うような感覚で求められていたものと思われます。
文章と絵の割合は、五対五ぐらいです。
代表的な作家としては、『江戸生艶気樺焼』などの傑作を生んだ山東京伝があり、
絵は当代一流の浮世絵師が、こぞって筆を揮っています。
内容は、洒落、滑稽、風刺、ナンセンスな笑いをおりまぜていますが、
文だけでなく絵を読み解くことも重要であり、
どちらかといえば、大人向きのものになっています。
最後に合巻ですが、これは草双紙の最終様式です。
黄表紙が敵討物の流行により、長編化したため、これまでの五丁一冊の単位では収まりきれなくなった。
けれども、冊数をふやすと表紙などのコストがかさむので、五丁単位の「巻」を「合」する合巻形式がうまれました。
先に出てきました『雷太郎強悪物語』は、三馬自身が「合巻の権與」と自賛しているように、合巻流行の口火を切った作品です。
毎丁絵入りで、文章と絵の割合は、六対四ぐらいです。
平易な筋をもち、演劇の趣向を取り入れたものも多く、さしずめ、長編劇画小説といったところでしょう。
(こんな授業をやってみたい 草双紙「江戸の子供の読んだ本」 小谷信行 鈴鹿工業高等専門学校助教授 一部参照)
注1 『源氏物語』の作者である紫式部や、「春はあけぼの」でおなじみの『枕草子』を執筆した清少納言は、
今の時代でいえば、偉大な小説家やエッセイストです。
しかし、実は当時はまだ、マスメディアとしての出版システムというものは存在しませんでした。
彼女たちは、それぞれが仕えていた彰子や定子のサロン内で、数名の読者に向けて文芸作品を創作していたのです。
出版社を通して、作家の作品が多くの読者に届けられるという「出版」が、本格的にビジネスとして成立したのは江戸時代。
つまり、作家が書きたいものを書くのではなく、
売れるものを出版社が作家に書かせるという形態が出来上がったのがこの頃なのです。
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が手がけた
写楽の浮世絵などが代表的です。
中には、商業ベースの体制に反発する作家もいたようですが、
大量出版は普及していきました。
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