教科書 に種類があるって知ってた?
転校生が面倒なことは
教科書 が異なると、
使用している副教材も、
これまた異なるわけで
授業を受ける度に、
資料集やらドリルやらを確認しなければならない。
皆が当然のことを、1年生のように最初から始める。
それって、結構、子どもにとっては緊張が伴い
気持ちがシューンと縮こまったりする。
そんな中で、改めて「 教科書 」という存在を思った。
転校した次女の新しい中学校は
珍しい教科書を使用していた。
この教科書会社は、
作品を読み取ることから
さらに一歩踏み込み、
生徒に「自分はどう考える」
という教材を与えようとしている。
教科書のはじめに
「この教科書を使うあなたへ」
という 見開き (!) での 説明がなされている。
『言葉の意味はだれが決める』
という哲学者の文章を載せている。
「答えはひとつだけではない。自分の考えが答えになる」
と、5つの問題提議から、
ひとつを選択し、
自分の意見を述べさせる
という授業をする。
こうした授業を行えるだけの力量のある先生でないと
この教科書を扱うことは困難なのではないかと思った。
前の中学校で
「教科書はどんな教科書を使っても、
どんな教材を使っても
生徒になにを身につけさせるかが、
教師の仕事です」
と、言われていらした
先生の言葉が思い出される。
教科書は教材なのであって、
それを生かして、生徒をどう導いていくのか~
それが、教師の役割りで、
教科書はその手段なのだと思った。
次に載っている作品は、
なだいなだ 氏の
『逃げることは、ほんとにひきょうか』
おそらく、
「いじめ」への道徳的な観念を
国語教科書の中で、
学ばせたいと思っての文章なのだろうと思うし
私自身、
「いじめ」こそが「ひきょう」で
その「ひきょう」から逃げることを
「ひきょう」とは思わない。
ただ、なだいなだ氏がここで使う
「勇気」という言葉の捉え方に、
不満が残る。
見栄や立場という社会的な価値を失わぬため、
社会的な罰を受ける怖さから
「勇気」と名づけた行動だ、
という認識で、
話を進める。
「勇気」とは、
ある種、
確かに
「誰かのため」
「誰かを守るため」
の
衝動と呼べるかもしれない。
しかし、
「勇気」が、
自分は本当は逃げたい気持ちを
抑制するための「勇気」だとは、
私には思えないのだ。
逃げることは、
賢く、
自分の身を守ることでもある。
それを、
「ひきょう」だ、
とは思わないことを
繰り返し言っておく。
その上で、
誰かのためにたたかう「勇気」
を持つ強さも
決して、不幸なこととは思えない。
他人が「いじめ」られている姿を見て、
見て見ぬフリをするような
逃げる「ひきょう」は、
言語道断である。
遥か昔、
自分の身も省みず、
カミソリを出されるかもしれない恐怖の中
友だちを「いじめ」る人間と、
3対1で向き合った
向こう見ずな「勇気」で、
必死に友だちのために
タタカッタ14歳の私は
当時、この文章を読んだら、なんと思っただろう。
学校に来なく(来られなくなった)友だちを、
全うなことだと思いながらも
やられた人間が、
学校に通えないという理不尽さに憤り
「いじめ」の張本人たちが、
大きな面を下げて、学校生活を楽しみ
下品な笑いをしている場所で、
それを「おかしい」と感じる感覚を信じて
「勇気」を出すことを、
愚かだとは思いたくないのである。
この文章を、
教科書として正しく読み取ると
「逃げることは、ひきょうではなく、
むしろ人として当然の心理で真理である」
ということなのであろう。
でも、中には
そう感じられない生徒がいると思う。
そういう気持ちの人間が
存在していてもらいたいと思う。
この教科書会社の、
こういう教材を、
教師は、どう料理するのであろう。
教科書なんて、
教材に過ぎなくて
それを使って、
何を導かせる?
生徒に何を教えるの?
次女とこんな話をしたことがあった。
授業参観。
「数学の先生の授業。スゴく良くわかるの」
その言葉を聞いて、
どんな授業か気になって出かけた。
基礎と応用の小人数に分かれての授業。
試験で、2つのクラスに分ける。
次女は応用。
1年生の復習を兼ねて授業は進む。
確かに、
昨年の数学の先生の
「全員にわかる授業」
のペースとは違い
「これは、わかってますね」
という前提で、
どんどんと問題を解く。
中には、いちいち
「先生、ここなんですが」
と質問し、
先生を独占する生徒もいる。
そのアピール力は次女にはない。
あなたは手も挙げないけど、全問正解でしょ。
だったら、手を挙げて
「私は理解しています」
って態度に出さないと
先生はわかってくれないよ。
前の学校の先生は、
あなたのノートを見て、
わかっているから当てようと
思ってくれたのだけどね。
ここでは、そうはいかないよ
そういえば、テストの点数だけでなくて、
ノート提出や、手を挙げることも
成績に関係しますって言われていた。
ママの時代。
成績は相対評価といって、
上から何人は「5」
下から何人が「1」
って決まっていたの。
でも、今は絶対評価でしょう。
先生が、あなたたちを評価するのだから、
これとこれをこうすると
こういう評価をします
~という説明をして、
あなたたちはそれに
どれだけ、到達していけるか~ということを
見ていただくの。
だから、1年間の授業の前に
評価を与える人間が、
与えられる人間に
「あなたのこういうところを見ていきますよ」
と知らせてくれた以上
それに向けて、努力していかないといけないんだよね
「それは、手を挙げなさいってこと?」
だって、わかっているのなら、
「わかっています」
と、わかってもらえないと
「わかっていない」
ことと思われても仕方ないでしょう?
あなたの先生も、
去年
どういう風に点数をつけます
って教えてくれたでしょ。
だから、そのために、
こういうことを頑張りなさい!
って。
でも、2年生になると、
そこまで、教えてもらえないかもしれない。
自分で考えて、
行動していかなくてはならないことも
出てくるのだと思う。
だから、頑張ろうね。
私の 1年生の時の先生は、
試験の度に、今度はこういところを、こう評価しますって教えてくれたよ。
1年の最初だけだと忘れちゃうから・・・
そうだね。
そういう風にしてくれると、
今、自分が頑張らないといけないことは
何かなあ~って、わかるよね。
でも、今は、そう教えてもらえなくても、
自分で考えていかないと
誰も教えてはくれないのかもしれない。
しんどいだろうなあ~と思うけどね。
でも、自分の頭で、
ここを勉強する時は、何が大事なのかな?
ここから、何が学べるのかな?
って、考えてみようね。
手を挙げなくとも、わかっている~って、
あなたのことをママはわかっても
他人はわからないかもしれない。
少しずつ、そういう自分を恥ずかしがらないで、
胸を張って頑張ろうよ。
答えを間違ったっていいんだよ。
他人の間違いを笑う人間の方が、
心が狭いのだから・・・
転校生は、神経をすり減らしながら、
机に向かっているのだろうと思う。
背中を丸め、小さく小さくなっている次女は
中学1年の時の次女と、
同じ生徒とは思えなくて
母としては、せつない。
でも。
ずっと、ここで生活している子にとって
「違う」ことが、
世の中には、いっぱいあって
自分が、そこで、どうやって、
より自分を失わずに生きていけばいいのか
なんて、思いもよらないのだろうと思う。
そういう面で、
今は、とても厳しく淋しい状況でも頑張る自分に、ちょっとでも胸を張れるようになったら
次女にも長女にも、
そして、私にとっても
とてもとても大事な時間だったと思える時が、
きっとくると思うのだ。
教科書という与えられたものから
どれだけ、それを深め、
自分で進んで学びとっていくか~
その気持ちを、持つように、
持ち続けられるように
応援していきたいと思う。
そして、親もまた、
新しいことを知る好奇心と
知っていると思っていることを、
より深く考える時間と機会を
失わずにいたいな~と思う。
「難易度」 のページも、ご高覧ください。
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お時間ございます方は、
COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る の
拙文をお読みいただけましたら幸いです。
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