学びの原点

絶望からの生還

2008年7月29日

絶望からの生還 という大切な気づきをいただいた

 

尊敬する恩師が 退任され、
懐かしい学び舎を 訪れた私は、
先生の文章を 手にすることができた。

そこには 絶望すること ~ という文字が られていた

 

かつて、21世紀の母 ~と、

私たちを呼んだ先生は、

今、絶望からの生還 を

そこに記されていらした。

 


○ 何か言おうとすれば、今までと同じことをくり返すことになりそうなので、別のことを書きます。

○ 万巻の読書をしたつもりもありませんが、様々な〈ことば〉が 去来します。 それがたいてい 10代、20代で 読んだものなのです。

○〈俺の生涯は人に糧を与えて自らは忘れられる生涯なのだ。〉 (エドモン・ロスタン原作、辰野隆、鈴木新太郎 / 訳 『シラノ・ド・ベルジュラック』 より)は、文字通り 芝居のカッコイイ台詞です。 この場合の〈糧〉は 〈ことば〉のことと解釈して、なるほど〈ことば〉は 残るにしても、それを言った人は 消えてなくなることかと思います。 〈生きるか死ぬか、それが問題だ〉 または 〈このままでいいのか、このままではダメなのか、それがよく分からない〉 (シェイクスピア 『ハムレット』 より。様々な訳あり)は、青年ハムレットの 苦悩の究極と理解されています。 しかし、70歳直前のクリツボには アッと驚嘆にあたいする台詞です。

○ 同じくシェイクスピアの〈絶望して死ね!〉( 『リチャード三世』 諸種の訳は たいていこれにつきる)は、悪虚非道の限りをつくした リチャード三世が、自分が殺した人々の夢に うなされて、その時 聞くことばです。

○ そうか、絶望しないとダメなんだ と思い始めました。 正しく絶望して、それを超えなければ 本当の希望などありはしない。 希望を念仏のように唱えても ダメだと気づいたのです。

 

(引用 終わり)


宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』

に、次のような〈ことば〉がある。

その氷山の流れる 北のはての海で、
小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、
烈しい寒さと たたかって、
たれかが 一生けんめい はたらいている。
ぼくは そのひとに ほんとうに気の毒で
そして すまないような気がする。
ぼくは そのひとの さいわいのために
いったい どうしたらいいのだろう。

「なにが しあわせか わからないです。
ほんとうに どんな つらいことでも
それが ただしいみちを 進む中での できごとなら
峠の上りも下りも みんな ほんとうの幸福に近づく
一あしずつですから。」

燈台守が なぐさめていました。

「ああ そうです。
ただ いちばんのさいわいに至るために
いろいろのかなしみも みんな おぼしめしです。」

青年が 祈るように そう答えました。

どうして 僕は こんなに かなしいのだろう。
僕は もっと こころもちを きれいに
大きく もたなければ いけない。

こんな しずかな いいとこで
僕は どうして もっと 愉快に なれないだろう。
どうして こんなに ひとり さびしいのだろう。

「カムパネルラ、また 僕たち 二人きりになったねえ、
どこまでも どこまでも 一緒に行こう。
僕は もう あのさそりのように ほんとうに
みんなの幸のためならば 僕のからだなんか 百ぺん灼いても かまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼には きれいな涙が うかんでいました。

「けれども ほんとうのさいわいは 一体何だろう。」
ジョバンニが 云いました。

「僕 わからない。」
カムパネルラが ぼんやり云いました。

「僕たち しっかり やろうねえ。」
ジョバンニが 胸いっぱい
新らしい力が湧くように ふうと息をしながら 云いました。

 


 

私は クリツボ先生から 〈ことば〉 を学んだ

文学でもない、読み方でもない、

〈ことば〉 を学んだ。

そして、

21世紀の母 となった 私は、

〈伝える〉 ことに こだわる。

シラノ・ド・ベルジュラックの
〈俺の生涯は 人に糧を与えて 自らは 忘れられる生涯なのだ。〉

という台詞は、

その生涯を生きた 肉体としての物体 が消えても、

その糧となる生涯を〈ことば〉にして〈伝えて〉こそ残る。

〈一生けんめいに はたらいている たれか〉の さいわいと なるために、
〈たれか〉の生き方を 伝えていくこと、
その生き方を 忘れないことこそが、
〈たれか〉の さいわいと なるのではないだろうか。

「慈悲」 「アガペー」

それを 自己犠牲~無償の愛 と呼ぶことを、
自己満足~自己欺瞞 と 決めつける者がいる。

〈ことば〉は 文字の羅列でしかなくて、

その文字に なんの価値があるのだろう~

文字は 信号でしかなく、

そこに 意味など 必要ない~

〈ことば〉で 伝えられることのできない 真実があるのだ~

と 主張する者がいる。

 

そういう考えを否定はしないし、尊重したい と思う。

 


 

絶望からの生還

けれど、

未来を育てる者は、

〈伝える〉ことを

あきらめてしまっては

いけないと思うのだ。

 

私は 未熟だ。

自分が、人格を育てるということに

畏れを感じて生きている。

 

だからこそ、

学ぶ。

そんな未熟な自分という存在を、

忘れることはない。

 

出逢った人、

一人一人から、

その〈ことば〉を通じて、

私は たくさんの生き方を 学んできた。

 

私には、大きな力はない。

教えるだけの 力量もない。

 

けれど、忘れない。

出逢った貴方のことを、

貴方の生き方を受け継ぎ、

〈伝える〉ことで、

貴方を生かす。

 

生きている時には

見えなかった〈ことば〉が、

死して 見えてくることもある。

 

私は 自己犠牲の上に、

自分の欲を 押し付けている人間だと

思われてしまうのかもしれない。

主張する人間に埋もれて、

私の苦しみや哀しみを

理解してくれる人なんていないのかもしれない。

 

それでも、

誰かにそっと〈伝え〉て、

私は生きる。

 

それを、どう受け止めるかは、

個々の人間に委ね、

自分で〈伝え〉たい〈ことば〉は

最期まで〈伝え〉て生き抜く。

 

時々、伝えたい想いが、

受け取ってもらえずに、

苦しみ 絶望 に うちひしがれる時もある。

自分の愚かさに、

切なくなって、

頭を地面に叩きつけたくなるような

激しい寂しさを感じる。

それでも、

〈正しく絶望する〉自分を 受け入れて、

それを超える努力を 忘れてはいけないのだと思う。

 

「僕たち しっかりやろうねえ。」
ジョバンニが 胸いっぱい
新らしい力が湧くように ふうと息をしながら 云いました。

 

絶望の淵に立った時、

深呼吸をしよう。

 

大きく「ふう」と息をしながら、

「しっかりやろうねえ」と、

目の前の小さなことを

忘れることなく 積み重ねてみようと思う。

 

どうして こんなに ひとり さびしいのだろう

 

そのさびしさを 超えなければ、

絶望からの生還 は ないのかもしれない

 

そうして、

私は〈ことば〉を〈伝え〉る。

 

大切な あなたのために・・・

 

自分を大切にするために・・・

 

 


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文を お読みいただけましたら幸いです。

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