学びの原点

原点

2008年8月2日

 

子どもの瞳を輝かす 教育の 原点

「文学界」2002.5.1 特集 : 漱石・鴎外の消えた「国語」教科書

 

栗坪良樹  『小説は「国語」を救う』 より

 

原点 栗坪良樹

ここに一冊の冊子がある。

『高等学校学習指導要領解説 国語編』(平成11年 12月 文部省)がそれである。

《特に、文学的な文章の詳細な読解に

偏りがちであった指導の在り方を改め、

自分の考えをもち

論理的に 意見を述べる能力

目的や場面に応じて 適切に表現する能力

目的に応じて 的確に読み取る能力 や

読書に親しむ態度 を 育てることを重視する。》

 

相変わらず息が長く 網羅的に意見を述べている。

 

この改善要件のポイントには、

これより以前の「国語」教育が、

〈文学的な文章の詳細な読解〉

に偏っていたという抜き難い前提が認められる。

 

私流に直して言えば、

小説などを くだくだしき調子で 読ませていたから、

生徒の論理能力、

表現能力、

読解能力が増進せず

 

〈読書に親しむ態度〉

を疎外してきたというのが

本当のところだろう。

 

この種の論議は 昔からあった。

現に小説を書いている人にも それを言う人があったくらいだった。

 


 

論理能力

表現能力

読解能力

といったふうに

まるで 三本立の映画を並べたような言い方になっているが、

要するにそれは

〈読むこと〉〈書くこと〉 の結果

を指しているわけで、

究極一本化して言えば

〈読むこと〉

に尽きている。

 

読むことの訓練が

行きとどいているかどうかの前提を

どのように捉えているかそれが問題だ。

 

育ち盛りの子どもは、

何ごとによらず身を入れて

懸命になるのが習性であるとすれば、

身を入れて読むことをしてきたかどうか の 問題でしかない。

 

あえて私流に言えば、

誕生以前から子どもは

〈ことば〉

の嵐の内に投げ出されている。

 

胎内で母親の言葉を聞き、

赤ん坊となって外界の雑音を含む

無秩序な言葉の世界に次第に深入りしていく。

 

他の動物と違わない本能的な感知能力

つまり 感性、感受性というセンサー のようなもので

雑音、騒音、言葉を腑分けしながら

秩序のない〈ことば〉を持ち始め、

階段つまり〈ことばの梯子(きざはし)〉を上り始めていく。

 

その上り方には

著しく

個人差があってひととおりではない。

 

文字がわずかしかない

絵本に馴染んで、

母親がくり返し読んでやる

〈ことば〉の響きによって

感性、感受性に引っかかった

〈ことば〉を知り始めていく。

 

そのくり返しが〈ことば〉と形を連動させて、

まさにその子に応じた

〈ことばの梯子〉を上っていく。

 

絵ばかりで文字の少ない絵本から、

次第に文字の増加した絵本、

そしてさし絵程度の物語の世界へと、

〈読むこと〉の〈梯子〉は続いていく。

 

一気に駆け抜けて

上段に躍り上ることは出来ない。

 

自分と他人を弁別し、

自分が外界に属する一人であり、

まさに社会の一構成員であることを知っていくために

〈ことばの梯子〉が

天井へ向けて掛けられていると考えたとしよう。

 

〈読むこと〉を原理として

〈書くこと〉

〈話すこと〉

〈聞くこと〉

総合的に行われていく。

 

さらにこれに

〈見ること〉

を加えることが重い意味をもつ。

 


〈見ること〉は〈想像すること〉〈創造すること〉とも連動していく。

一貫して〈ことばの梯子〉を丁寧に上っていかなくてはならない。

何故、〈ことばの梯子〉を上っていかなくてはならないのか。

〈人生〉という語は死語ではないが、

連発すれば気恥かしさが伴う。

 

亡くなった阿部昭は〈人生〉という表現を

好んで使う小説家の一人だった。

 

〈人生〉とは何のことでもない。

人が生まれて死んでいく、

その一生のことを言っている。

 

詩人であるなら

木の葉が芽吹き秋に枯葉となって枝を離れ

地上へ落葉するその短い旅のことだと言うだろう。

 

〈ことばの梯子〉を上る時、

〈人生〉の感触にふれているかどうか

そこが問われることになる。

 

文部科学省が、

まだ文部省と称していた時、

例の〈神戸連続児童殺傷事件〉が起こり、

子どもの育て方、しつけ方、

まさに人生の目的に至るまで

役所として様々な見解を説き

学校に向けて通達を発した。

 


 

知る人ぞ知るであろうが、

〈生きる力〉

〈ゆとり〉

〈心〉

という言葉が

キイワードとして強調され、

〈殺傷事件〉の衝撃と連動しているから

学校人は右往左往したものだった。

 


 

〈生きる力〉をつけて

〈ゆとり〉をもって

豊かな〈心〉を

育てて生きていく。

 


 

その究極に〈自分さがし〉ということが掲げられていた。

 


 

〈自分さがし〉とは、

今、一刹那を求めることではなくて、

まさに息の長い

〈人生〉の究極を求めることであるということも強調された。

 

介護体験などを子どものうちに知らしめて

〈いのち〉の尊さを

身をもって学ばせるべしということも

そこから派生してきたはずだ。

 

時代や社会は誤魔化しようもなく、

効率や現実利益を大目的とする環境に急展開して、

有名大学出身の官僚や企業人、政治家が連日逮捕されたり、

芝居の勢揃いの場のように会社の幹部が並んで頭を下げる

謝罪の光景が演じられてきた。

 

そういう環境に叩きこまれている子どもたちに、

それはそれ

これはこれと言わんばかりに

〈自分さがし〉を課したとして難儀するのは、

正直、真面目、不器用な子どもたちに他ならなかった。

 

私なども正直に告白すれば、

何度もしきり直しのつもりで

根源に戻って世の中を慨嘆するだけではなくて、

何をどうすればいいものか

徒手空拳今日に至っているようなものだ。

 

「国語」教員 に戻って変わらぬ決心で言えば、

読み継がれてきた

練り上げられた文体をもっている小説を媒介にして

〈ことばの梯子〉を上っていくこと、

〈自分さがし〉を敢行すること

それ以外に教場の熱狂は演出出来ない、

それが一番の問題だ。

 

オートマチックに叩き出された文章ではなくて、

練り上げられて洗練された文体をもっている表現ということが重要だ。

 

木下順二の名作「夕鶴」で言えば

一本一本羽を抜いて織り出していったような表現ということになろうか。

 

黙読しても音読しても、

その文章から描かれた世界、

対象フォルムが現前化する表現と言ったらいいであろうか。

 

先に述べた漱石、鴎外、芥川、中島四傑の作品は

紛れもなくフォルムが現前化し

身につまされた生徒には〈自分さがし〉の一助となったであろう。

 

栗坪良樹 Wikipedia

 


 

原点 小幡万里子

栗坪先生の講義をいただいていた頃の

常に、一番前の席で、ノートを取り

一言一句を聞き洩らさぬように

耳を傾けておりました。

 

これが私の 原点 かもしれない

ずっと、一貫して〈ことば〉に

こだわり続けていらした先生の姿は

たったの3年という時間の中で

多くのものを私の内に残してくれた。

 

否、宿してくれたといっても過言ではない。

その宿りを、私は子どもたちに伝えたいと

その思いで生き続けているのかもしれない。

 

教育の 原点 青山学院女子短期大学 専攻科 栗坪良樹 木村久邇典

 


 

〈人生〉とは何のことでもない。

人が生まれて死んでいく、その一生のことを言っている。

その何のことでもない

〈人生〉

そこには、つなげるという〜渡す〜という

あるものが存在する。

 

その、あるものを

上手く説明出来ない歯痒さがあるのだが

ことばを認識さえしていなかった我が子が

今、目の前にいて

その子自身の考えを持ち

まさに生きていることそのものが

私にとっての

あるものであることは

事実である。

 

〈読むこと〉

を原理として

〈書くこと〉

〈話すこと〉

〈聞くこと〉

が総合的に行われていく。

 

さらにこれに

〈見ること〉

を加えることが重い 意味をもつ。

 

〈見ること〉

〈想像すること〉

〈創造すること〉

とも

連動していく。

一貫して

〈ことばの梯子〉

丁寧に上っていかなくてはならない。

 


 

自分が上がった梯子を 次に つなげる。

さらに 手渡す。

 

読み聞かせをする時

ひたすらに瞳を輝かせる子どもの光は

強い生命感に溢れている。

 

読み聞かせ 子ども 瞳 原点

 

死に損ねた私は、それ – 原点 – に救われた。

救われたそれは、

誰かのための力になる!

 

たった一人の 原点 とは、普遍 にもつながる。

 

〈文学的な 文章 の 詳細な 読解〉

に偏っていた 国語教育を

受けてきた人間にとって

まず読むこと。

ひたすらに読むことの出来た(課せられた)3年間は

私の 〈ことばの梯子〉 を 作ってくれたのだった。

 

今、再び、

読むことの喜びを感じている。

 

そこには、

大きな尊敬する師の存在がある。

人は、それこそが

〈ことばの梯子〉 を上る時の

〈人生〉 の感触にふれている

ということなのかもしれない。

 


 

常に

栗坪先生が 繰り返す言葉

「行間を読み取りなさい」

小説も

人も

心も

そして万物・・・

 

行間とは

想像 と 創造 だと思っています。

 


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 

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