国語の力

花畑のある島

2008年7月28日

この短編を読んで、私は、私がわずかの時間を共にした
<矢田のばあちゃん>と同じような女性たちを
思い出さずにはいられなかった。

私が自転車から落ち、入院した脳外科の病室に彼女はいた。
彼女は<矢田のばあちゃん>のように
手足胴をベッドに括りつけられ動けないようにされていた。

それは<矢田のばあちゃん>のように
どこかへ行ってしまうという理由ではなく、
鼻に入れられた管や点滴を外してしまうからであった。

しかし、六十過ぎの老婆の
「外してぇ。もう嫌だぁ。」
という声は哀しく恐ろしく耳に残っている。

又、ある彼女は<矢田のばあちゃん>のように
簡易便器を使用していた。
彼女の場合、一人で歩行ができないためにであったが、
介添えつきで歩けるようになると、
やはりカーテン1枚で区切られた場所での用足しは嫌だったらしい。

ある日、一人で便器を使おうとしてベッドから落ちてしまった。
「トイレの時は看護婦を呼ぶように言ってるでしょ。」
というナースの怒りに、彼女は手を合わせて
「ごめんなさい。ごめんさい。」
と目に涙をいっぱいためていた。

私も絶対安静と言われていた時、
尿瓶で用を足すように言われ困り果てた。
生理現象は起こっても、いざ、尿瓶を入れられても、
尻のヒヤッとした感覚や横たわった体のままでは、
なかなか思うようにいかない。

母親や妹など肉親の手でさえ、
羞恥や自己嫌悪が起こるのに
(私は意識ははっきりしていたのである)
まして年齢もかわらぬ看護婦さんにはなかなか言えず、
そっと起きようとして強い叱責を受けた。

彼女にとっては、私が感じた以上の辱めであったろう。
入院患者にとって、トイレというのは
非常に大きな意味をもっている。

<くさい、くさい>と言われた<矢田のばあちゃん>の心は
如何程のものであったろうか。

又、ある彼女は脳腫瘍で、見舞いに来る者といえば、
月に一、二回。それも洗濯物を取りにくる妹くらいで、
彼女も粗相をしては
「着替えがないの。看護婦さん。家へ電話して下着や寝間着のこと言って頂戴。」
と言っていた。たまに妹が訪れると
「なによ。下着もタオルもないのよ。」
「忙しいんだから仕方がないでしょう。また看護婦さんや皆さんに迷惑をかけているんじゃないの。皆さん、すみませんねえ。」

確かに私の入院中、母や友人が来る度に
「私なんか三年近く入院しているから、お見舞いなんて来なくてねぇ。あんたなんか入院してすぐだもんねぇ。」
と言われ、私の見舞客が来ると、買い物を頼む。

「悪いんだけど<<カフェ・オレ>>をお願いしていいかねぇ。」
と必ず言い出す。

彼女はこの<<カフェ・オレ>>という言葉が得意気なようであった。

また、彼女は歯ブラシがない、ベッドを上げたいと言っては
頻繁にナースコールを押す。

しかし今思えば淋しい彼女の唯一の社交の場だったのかもしれない。

私は退院したものの通院を余儀なくされ、
そのついでに彼女を見舞った。

<<カフェ・オレ>>持参で。

次第に彼女も私を待っていてくれているのがわかった。

一ヶ月後、彼女はいなかった。

あっさりと逝ってしまった。

『人間の約束』という映画があった。

それは老人が徐々にボケてしまうというもので、

私が涙が出るほど哀れで寒々としたのは、
その老人が自分がボケ始めているということを自覚しながら、
ボケていくということであった。

狂気へ走りかけている自分を自覚している自分がいて、
それをどうすることもできない人間がいるのだ。

 <矢田のばあちゃん>は、その自覚なしに
もうひとつの世界へ入り込めたのだから幸福だったのかもしれない。

そこまで<矢田のばあちゃん>を追い込んだ
息子、嫁、孫が悪いとは思う。

しかし『花畑のある島』を
<矢田のばあちゃん>が切り捨ててしまったその時、
すでにあっさりと逝くことが<矢田のばあちゃん>に
運命として課された。

捨てられた『花畑のある島』はそれまでの優しさで
<矢田のばあちゃん>にある種の幸福(彼女の母への希望)を
胸に抱かせ、悲しむ人もいないかもしれない

あっさりとした死を与えられたのだろう。

それは、『花畑のある島』にとっても、
<矢田のばあちゃん>にとっても切ないほど、
優しいものが漂っている気がする。

20歳の小幡万里子さん。

課題で読んだ本です・・・が、記憶に残っておりません。

人の記憶なんて、本当に悲しいほど容量の少ないものだと痛感。

この作者は一体誰だったのかもわからず、
調べてみると恐らく「阿部昭」氏であったかと思われ・・・
教授が岩波書店の『阿部昭集』の編集に携わっていたことが、
この課題につながっていたのでしょう。

そして、この20歳を目前の私にとって、
脳外科での入院生活というものは
老いも若きも、生と死の人生を抱えていることに
直面した時間だったのだと思います。

30代で髄膜炎で入院していた女性は、
幼稚園児の娘の面会を楽しみにし
激しい痛みを伴う髄液を取る検査に耐えておりました。

脳腫瘍に侵されて、寝ながらも唸りつづけている老いた女性。
小さく小さく小人のように縮こまっても、
笑顔を忘れないおばあちゃま。

6人部屋から退院して行ったのは、
私と30代のお母さんの二人。

私の通院中に、同じ病室で過ごした患者さんは、
順番に亡くなり
通院時に病室へ顔を出す必要もなくなりました。

有名でなくとも、誰にその名前が知られなくとも
この時に同じ空間にいた〜その人々の顔は忘れることがありません。

先日、国立大学のオープンキャンパスで
図書館を見せていただきました。

阿部昭全集の中のあとがきに教授の名が〜!

そんな再会が、とてもとても嬉しかったです。

阿部昭集〈第9巻〉緑の年の日記 ほか

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