国語の力

図書館で本を借りないで って… (I can’t believe)

2011年1月25日

 

図書館で本を借りないで って … 言うかなあ?

こんにちは。
クラブマネジメントの 小幡万里子 です。
本を読むのが 好きで

小さな頃から プロフィールに 書く

趣味の欄は 「読書」 でした。

 


 

ある時、ツィッターで 白石一文 さんという
親子で 直木賞を受賞した 小説家さんと 出会いました。

白石さんが、

具体的な 印税の数字を 挙げて

「皆さんが 図書館を利用すると

良心的な作家ほど 行き詰まる。

だから、

せめて 「書き下ろし」 と 銘打たれた本だけでも 書店で 買ってほしい。

書き下ろしの場合、

本の 印税以外の原稿料は 一銭もない。

雑誌に連載されたものは 掲載時に原稿料を 受け取っているのですが

それがない 書き下ろしは 本の売れ行きがすべて。

一年かけて 月収6万円では さすがにやれない。

図書館を利用されると 本当につらいです。 」

 

と、

このような言葉を書いておりました。

 


 

私は 白石一文 という 作家の書く作品を 嫌いではありません。

ただ、

今回の 一連のツィートは、

非常にカッコ悪い と 思わざるを 得ません。

 

私は、作家とは書かずにはいられない
情動の表われを、文章にしないではいられない
異端者としての使命をもった人間だと思っております。

 

食べるための糧が欲しいならば
書くことなど辞めて食べるために働けばいいと思うのです。
そういう人間は日本中にも世界中にもたくさんいます。

 

だあれも、あなたに作家になってと言ったわけではありません。
簡単で安全に収入の約束された仕事ではないと知って選んだのではないのかな?と思います。

 

あるいは、図書館に置けないような下劣で卑猥で
自分の頭で考えることを止めた人間向けに
職業作家として偽物を作りそれを売ればいいでしょう。

頭の悪い大衆は、そうした下品なものを面白おかしく感じて、どんどんと買うでしょう。
それでいいではありませんか。

 


 

 

本物の分かる人間は、買いたいと思える価値あるものには
黙っていてもお金を出すものです。

 

あるいは、村上龍氏のように紙にせず
電子書籍で勝負すればいい。
そうすれば売上の6割から7割が自分に入る。

 

志の低い作家の労働組合なんて凄くカッコ悪い。

 

自分が選んだ人生で上手くいかない人間なんて山のようにいます。
それでも上手くいかないことをなんとか打破しようと懸命に生きているわけです。

 

小説なんて、そんな人間の人生を描いたものではないのかな。

 

それ以上でもそれ以下でもない。

 


 

 

白石一文の作品は好きでした。
文庫になるのを待って、購入して読んでいました。

 

ある作家の文章が読みたいと思うのは
それはその人の考えを知りたいから。

 


 

作家は職業でしょうか?


 

 

作家は生き方だと私には思えます。

 

読者は一個人のあなたの発するあなたの思考を受けとめてくれる存在。
読んでもらえることに、感謝の心は生まれないのでしょうか。

 

小説書きだけで生きられないならば別の仕事も探せばいいのではないの?

 

それで、印税云々に縛られる人生から逃れられる。

 

一件落着☆よかった。よかった。

 


 

 

人間なんて単純。

 

せっかく、男女の大人の恋愛や人生を描く
「作家」と称され認められている称号を手に入れたのに
たくさんの方に手にとってもらえる図書館を
自分の経済の敵と言うのは
志低い人間に自分を置いてしまうのね。

 

私の祖先は武士の家の出で
徳川家末裔の徳川義宣先生から
お妃候補の打診を受けました。

 

「武士は食わねど高楊枝」の精神が
自分の中で育っています。

 

 

人生は自分で選んで生きているもの

 

他人や政治や制度のせいにして
自分が得して生きようとすることは、
どうしても性に合いません。

 


 

 

自分の本が売れなくなるから
図書館に本を置かないでと言うのは
日本の作家として認められるよりも
多くの読者を創り上げたいという気持ちよりも
自分の金を惜しむ意地汚い商人みたいだと
私には感じられます。

 

貧しくとも気高く生きていきたいと思います。

 


 

 

作家、佐々木譲氏の図書館についての発言は以下のようでした。

 

「同業白石一文さんが、図書館で書き下ろしと銘打たれた本を借りないでくれ、と書いている。印税について数字を出したうえで、「皆さんが図書館を利用すると良心的な作家ほど行き詰まる」と。この問題については何度かブログにも書いてきたけれど、わたしは図書館を作家の敵とは思わない立場だ。

 

なにより、読書家としての自分が図書館で育ったという自覚がある。

 

図書館は本一般の読者を育てるだけではなく、わたしの読者も育ててくれる。
作品を知る、作家を知る、その回路を狭めて、読者が増えることはありえない。

 

ある図書館でわたしの本が10人に借り出されたと聞けば、わたしは10冊分の印税がふいになったとは考えない。

10人の読者ができたと考える。そしてそのうちのただのひとりにも、次は買おうと決意させることができなければ、それは作家としてのわたしの負けだ。」

 


 

 

内田樹氏は以下のように述べています。

 

「とりあえず私の場合、書物を刊行したり、論文を書いたりするのは、一人でも多くの人に読んで欲しいからであり、一円でも多くの金が欲しいからではない。
こちらからお金を払っても申し上げたいことがあるので、本を書いているのである。」

 

「もし著作物が一人でも多くの読者に読まれることよりも、著作物が確実に著作権料収入をもたらすことが優先するというのが本当なら、物書きは「あなたの書いた本をすべて買い取りたい」という申し出を断ることはできないはずである。買った人がそれを風呂の焚きつけにしようが、便所の落とし紙にしようが、著作権者は満額の著作権料を得たことを喜ぶべきである。」

 

「無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。
本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。
私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。
著作権についての議論ではどうもそこのところが混乱しているような気がする。」

 

「私たちは無償のテクストを読むところから始めて、やがて有償のテクストを読む読者に育ってゆく。
この変化は不可逆的なものであると私は考えている。

書架は私たちの知的傾向を表示する。それは私たちの「頭の中身の一覧表」のようなものである。
だから、「本読む人」は必ず「個人的な書架」を持つことを欲望する。
その場合書架に並べられるのは、おおかたが購入された書物である。」

 

「「無償で読む読者」が「有償で読む読者」に位相変換するダイナミックなプロセスにはテクストの質が深くコミットしている。
「この本をぜひ私有して書架に置きたい」と思わせることができるかどうか、物書きの力量はそこで試される。」

 

「ネット上で1ページ読んだだけで、「作品の全体」を読んだ気になって、「これなら買う必要がない」と判断した人がいて、そのせいで著作権者に入るべき金が目減りしたとしても、それは読者の責任でもシステムの責任でもなく、「作品」の責任である。」

 


 

 

さらに、私が調べたところ
「本の印税は、売れた部数ごとに発生するのではなく
刷られた段階でその部数に対して発生する」

とのこと。

 

日本大百科全書によると。
「印税は普通、定価×発行部数×一定率(5~10%)であるが
返品率の急伸のため、一定保障部数を設定したうえ
実売部数を算定の基準にする例もある」

 

最近では実売部数に移行する例もありつつも
基本的には著者に払われる印税の算出基準は
売上に関わらず発行部数の5~10%だそうです。

 

売上に関わらず発行部数で印税が計算されるのなら
図書館の貸し出しで売り上げが減ろうが
なにしようが著者の儲けとは関係ないじゃん、ってことなります。

 

実際には増刷とか重版の可能性があるのでそうとも限らないのでしょうが…。

 

しかし、だとしたら、図書館云々と騒ぎ立てるのはいかがなのでしょう。

 


 

 

また、出版社との契約に不満があるとしたら
図書館に八つ当たりするのではなく
きちんと、出版社と話し合いすべきでしょう。

 

「これでは、生活が成り立たない。
最初から5000部でなく、1万部にしてくれ。
自分の作品はそれだけの価値がある」

と、しっかりと1万部売れるものを作ればいいじゃん。とも思います。

 


 

 

なんだかね。
売れない作家が売れないものを書いて

 

売れないのは図書館のせいだ!

 

って、責任転嫁している
みっともない人間の姿にしか見えないのですよね。

 

 

本が売れないって言うけれど
直木賞作家の本を、その時読んでも記憶に残らなかったりします。

 

今、タイトルを聞いても、内容はなんだったっけ?
と、思ってしまうこともあります。

 

 

結局。
そんな本しか書けない人の情けない八つ当たりとしか感じられなくて
わかってくれないかな~なんて、ツィートしてみたりしたけれど
きっと、次元が合わないのだろうな~と思っています。

 


 

 

ほんものの作家さんて、すっごく謙虚で
読者をとても大切にします。

 

人間性って、文章に出るし、大事ですよね。

 

なんだか、直木賞の存在もちっぽけに思えてしまうから

文学界にとってあまりイイことではないですね。

 

教育の場をモンスターペアレントが荒廃させているとしたら
文学の場をモンスターライターが荒廃させているのかもしれません。
それは、やはり読者のせいではないですね。
書く者の意識が低くなっている結果なのかもしれません。

 

 

 

 

この出会いと、時間を共有してくださった方がたに
心から感謝です。
今日も一日…ありがとう。

 

 

この文章と同じカテゴリー : 国語の力


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文を お読みいただけましたら幸いです。

 

 

You Might Also Like

No Comments

Leave a Reply