こんにちは。
クラブマネジメントの小幡万里子です。
スーハーSNS内において、「白と黒と赤と青の言語倶楽部」なる
文章読本コミュニティを創りました。
日々、勉強してまいりたいと思っております。
さて…
昨日の映画 「ノルウェイの森」 から
小説 「ノルウェイの森」 へと目線を変えたいと思います。
白と黒と赤と青の言語倶楽部に、以下のような文章を書きました。
古代から存在する色名は
「アカ(赤)」
「クロ(黒)」
「アヲ(青)」
「シロ(白)」
の4色であり「アカアカと」、「シラジラと」、「クログロと」、「アオアオと」のように
副詞的用法を持つ色もこの4色のみです。
アカ(赤)
「アケ(朱)」「ア(明)ける」「アカ(明)るい」と同源で
夜が明けて明るくなるという意味から色の赤に転用されたもの。
クロ(黒)
古くは玄の字が多く使われた。
「ク(暮)レる」「クラ(暗)い」と同源で、
日が暮れて暗くなるという意味から色の黒に転用されたもの。
アヲ(青)
植物名で染料名でもある「アヰ(藍)」と同源。
後述する「シル(顕)し」の対語で
はっきりしないという意味から色の青に転用されたもの。
シロ(白)
「シル(知)」「シルシ(印)」と同源で、
はっきりした様を表わす「シル(顕)し」が
色の白に転用されたもの。
文化の原色がこの4色であることから、
古代日本語では、
明るい色はアカ、暗い色はクロ、はっきりせず曖昧な色はアヲ、はっきりした色はシロと呼ばれていたと思われます。
これらはマンセル色体系等における明度、彩度の概念を思い起こさせますが、現代において「赤」と呼ばれる色ははっきりした(彩度が高い)色であり、「白」と呼ばれている色は明るい(明度が高い)色であることから、
赤と白の間で言語の逆転が起こったと思われます。
語源からも分かるように、原始日本語においてはクロの対義語はシロではなくむしろアカであったと判断されますが、奈良時代には既にシロ甲/クロ甲のようにロの母音が同じロ甲類音になっており、シロとクロが対義語として捉えられるようになっていたようです。
「白黒はっきりさせる」などのように、
或いは警察関係の隠語でシロ・クロというように、
シロがクロに対置されるようになった経緯については様々な意見が見られますが、
「クラさ」に対する「アカるさ」が
「事物を明瞭にシルことができること」として意味が移り変わっていったことや
中国から入ってきた五行思想の色彩観の影響が理由として挙げられています。
ミドリ(緑)の語源ははっきりしていません。
「みどりの黒髪」という言い回しがありますが
『みずみずしさを感じさせる艶のある黒髪』を意味しており、おかしな表現ではありません。
日本文化の四原色の中で「ミドリ」は「アヲ」の中に属しますが、これは概念の問題に過ぎず、古代日本人がgreen(緑)とblue(青)を区別する能力を持たなかったというわけではありません。
日本では、greenをアヲ(青)の一部とする用法は広く残っています。
そして、greenをミドリとせずアヲと呼ぶ色彩観も方言などにおいては残っており
地方によっては今でもミドリ系統の色を含めてアヲと呼ぶところもあります。
その色彩観は、少なくとも近代まで、日本文化・政治にも存在しました。
「青信号」という語がその証明で、歩行者・自動車信号は法令により「緑色信号」 (green light) として定められ、実際にも現代人が「ミドリ」と感じる色彩が用いられているにも関わらず、俗に「あお信号」と呼ばれ、そのまま定着しました。
色と言語の関わりというのは、とても深いと思うのです。
古代日本語の
明るい色はアカ
暗い色はクロ
曖昧な色はアヲ
はっきりした色はシロ
そんなことを頭に入れながら
「ノルウェイの森」について考えてみたいと思います。
「ノルウェイの森」は赤と緑のクリスマスカバーで、巷に大きなインパクトを与えました。
それは、村上春樹自身が装丁にこだわり、帯も金に変えさせたのでした。
赤と緑の装丁について一般的に
「赤」は「血」であり「死」を意味している。
「赤」は「死」の匂いのする直子とともに、「死」の象徴である。
「緑」は木々の成長であり「生」を意味しいる。
「緑」は「生」の躍動感を感じさせる緑とともに「生」の象徴ある。
と、言われています。
私は、古来の日本に息づく色と「ノルウェイの森」を考えたいと思います。
赤は「明るい」=「血」と言うよりも、寧ろ、明らか~正しい、という意味に取れます。
直子は、真っ直ぐな子と書きます。
つまり、人間として、女性として「真っ直ぐで正直」な子どものような人…と受け取って許されるような人です。
そして、彼女はうまくしゃべることができなくても
自分の心を明らさまに真っ直ぐに出すことの名人です。
「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。
「ここのところずっとそういうのがつづいているのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしているみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」
こういう言葉を聞いて、あなたはなにを思いますか?
私は思います。
直子は、ずっと正直だった。
思ったことを口にして生きてきた。
そういう素直な存在だった。
愛する人も一人だった。
その人がいなくなっても、その人だけを愛し続けて、忘れることを畏れていた。
姉の自殺も、キズキとのきょうだいのよりも強いつながりの中で
「愛」されることによって、救われてきた。
その明らかすぎるほどの愛情表現を素直にみせることのできた女性の象徴であった直子だからこそ
やはり「赤」い本の女性として選ばれたのだと思います。
「緑」を「青」と同義語として捉えてみましょう。
あいまいな色である「緑」の象徴が緑という女性です。
恋人がいても、興味ある男性には積極的になってしまう。
そして、自分の気持ちさえよく理解できないまま
恋人と旅行先で、生理が始まってセックスが出来なかったということから簡単に別れてしまう緑。
「愛」とは違う、けれど、それを「愛」と受け止めたい緑。
「愛」を乞うているけれど、「愛」がわからない緑。
その象徴として緑が選ばれ「緑」の本になったと言えるのではないでしょうか。
さて、実は色をタイトルにした小説はたくさんの数があります。
が、ニ色の色を使ってタイトルにした作品は意外と少ないものです。
「赤と黒」 スタンダール
「黒い驢馬と白い山羊」 宮本 百合子
「灰色の姉と桃色の妹」 小川 未明
「青水仙、赤水仙 」 夢野 久作
「白い蛇、赤い蛇」 岸田 国士
ここに使われているニ色のタイトルたち。
それぞれに、色に意味を持たせています。
村上春樹が、あえてタイトルに用いることをせず
自分で成した本の装丁に色の意味を持たせたとして
それが、巷で言われている
「赤」=血=死
「緑=躍動=生
という捉え方と
「赤」=真っ直ぐな女性
「緑」=曖昧さをもつ女性
という捉え方をするのも、面白いのではないでしょうか。
この出会いと、時間を共有してくださった方がたに
心から感謝です。
今日も一日…ありがとう。
お時間ございます方は、
COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る の
拙文をお読みいただけましたら幸いです。
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