国語の力

「ノルウェイの森」を鑑賞

2011年1月4日

 

こんにちは。
クラブマネジメントの小幡万里子です。

 

2011年。
あけましておめでとうございます。

 

本年の目標でも、ここで宣言するのが普通ですが
私は、他人と同じことをするのは苦手なので
本日の日記を綴ろうと思います。

 

本日。
「ノルウェイの森」を観劇。

 

 

村上春樹の赤い本については、昔、下記のように書いたことがある。

 

村上春樹 あかいほんをもって森へいこう

 

映画「ノルウェイの森」は
村上春樹を理解できずに
字面だけを追った、時系列・箇条書きの
映像の垂れ流しであった。

 

唯一の救いは、松山ケンイチが
優れた役者だということを実感したこと。

 

女優陣については、村上春樹の描く女性の魅力を
演じるには足りなかった(容姿も演技も)

 

直子の繊細さも
レイコさんの過去も(レイコさんは、唯一の女性の強さと明るさの象徴だったはず)
ミドリのおきゃんなキャラクターも
まったく感じさせることのできないキャスティングであった。

 

ベトナムの監督・・・という言葉の壁もあっただろう。

 

けれど、「ノルウェイの森」に惚れこんで
村上春樹を落として映画化することができた・・・という
前評判は、嘘だったのだろうか?と疑問になる。

 

「ノルウェイの森」の「セックス」というキーワードは
ただの肉体の快楽や性器を挿入するだけの「セックス」では無い。

 

男女を超えた=人間のつながり~というものを表現するために
手段(ツール)としての「セックス」を使っただけで
(人の本能としても、愛情のしるしとしてのセックスをツールと言っては語弊があるけれど)
本来は、心と体をひとつにするということの
難しい人間のテーマを描くためのものなのだ。

 

村上春樹の文章の中で描かれる
キスやセックスは「やる」ものではない。
人間が理解し合う
人間が求め合う
そのために行為は存在する。

 

その行為は快楽ではない=つながりを求めることを止まない
人間の業の深さにまで
村上春樹は昇華して表現しているのだ。

 

日本人は細やかな感情を文字に込める天才である。

 

「祇園精舎の鐘の音」に「諸行無常の響き」を感じるのである。

 


 

それそのものの事象は「寺の鐘が鳴った」に過ぎない。

 

「古池や蛙飛ぶこむ水の音」

「古い池にカエルが飛び込んだ」

 

それだけを映像で切り取ったとしても誰の心にも響かない。

 

その寂れた池に、リアル(現実)で、そこに立つ人間の心もちや
俳句を文章として読んだ人間の心もち
その句を聞いた人間の心もちによって
初めてそれが、文学になり、芸術になる。

 

その気持ちや、心、日本人の魂を理解できない人間が
監督をしてはいけなかったのだと思う。

 

村上春樹文学は、映像にしてしまえば、価値を失う。

 

石原慎太郎の「太陽の季節」は
まさに、石原裕次郎という役者がいて、彼が主人公であったがために
映像としての成功を収めた。

 

映像に成り得る文学は、実は、文学では無いのかもしれない。

 

日本文学には「行間」の真実が存在する。
文字を超えたテーマや主題、作者、主人公の想いが込められている。

 

それでも、もしも、私が村上春樹の「ノルウェイの森」を映画にするとしたら
ビートルズのノルウェイの森をバックに
ワタナベが着陸した飛行機ので聞いた、そのシーンを最初に見せる。

 

37歳の松山ケンイチが、ハンブルグ空港の空を見上げる。

空が回る。
回りながら、20歳の自分に戻る。

 

そして、彼は、ひたすらに歩く。
見えない直子を追いながら、東京の街をひたすらに歩く。

 

直子とワタナベの往復書簡。
それを、松山ケンイチの声でアフレコする。

 

直子は姿を現さなくてもいい。
彼女の存在は、キズキとともに喪失していたのかもしれないのだから。
直子の時間は、キズキの死とともに止まってしまっていたのだから。

 

直子はひたすらに、東京をぐるぐると歩き続ける。
まっすぐではないのだ。
ぐるぐると…

18歳と19歳を繰り返すだけでいい…と彼女は言う。

 

すでに、前に進むことも、時間を送ることもできないのが直子であった。

 

その名前と相反する姿には
村上春樹の登場人物の名前のつけ方への意味というものを感じる。

 

私は、ハルキニストでもないし
何十回も「ノルウェイの森」を読むほどの熱心な読者では無い。

 

けれど、若い思春期の頃に読み
子育てをしながら読み返したこの作品は
やはり、最近、もてはやされている携帯小説のようなものとは
別格だと思うのだ。

 

直子と過ごした赤い本の時代を前篇に
緑の若さと無邪気さゆえの傲慢なまでの生への光を
緑の本の時代の後篇として
明るく光いっぱいの中で描く。
父親の死も、レイコさんを陥れる悪意を秘めた美少女の悪魔も
緑輝く燃えるような木々を象徴に映像を見せつけたい。

 

「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです」

 

とにかく、この映画の観るべき価値は
松山ケンイチが、これから、どんなに素敵な役者であり
男になるのか…という期待を持たせてくれたこと。

 

いろいろな顔を持ち
しかも、あの胃液を吐くかのような号泣シーンは
山田孝之くらいにしかできないと思っていたが
それを、演った松山ケンイチは本当によかった。

 

 

原作あるものを、映画化する時には以下の評価があると
内田樹氏は言う。

1)原作をどれくらい忠実に映画化したか、その忠実度を評価する。
2)原作からどれくらい離れたか、何を削り、何を付け加えたか、フィルムメーカーの創意工夫を評価する。
3)原作のことは忘れて、単独の映画作品として、「同じジャンルの他の映画」とのシナリオや映像や演技の質的な違いを評価する。

 

これだけの作品は、主題を大事に温めて
原作を裏切り、別の作品にしてしまうくらいの
冒険をしないと、成功しない。

 

世の中は、冒険者が生きる場所を奪った。
女は、冒険する性をもって生れてはこなかったのに
ノルウェイの森を彷徨い続けることを余儀なくされている。

 

この出会いと、時間を共有してくださった方がたに
心から感謝です。
今日も一日…ありがとう。

 

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