国語の力

『モモ』 と時間どろぼう

2010年9月12日

『モモ』

1973年発表のドイツの作家
ミヒャエル・エンデの児童文学です。

イタリア・ローマを思わせるような
大昔の円形劇場跡に住み着いた女の子
モモには、不思議な力がありました。

トラブルや悩みをかかえた人は、
モモに話を聞いてもらうだけで、
不思議に解決していくのです。

子供たちは、モモといるだけで
楽しい遊びを考え出し、
楽しい時間をすごすことができるのです。

小さなモモにできたこと。
それはほかでもありません。
あいての話を聞くことでした。
なあんだ。そんなこと。
と、みなさんは言うでしょうね。
話を聞くなんて、
だれにだってできるじゃないかって。

でも、それはまちがいです。
ほんとうに聞くことのできる人は、
めったにいないものです。
そしてこの点でモモは、それこそほかには
例のないすばらしい才能をもっていたのです。

モモに話を聞いてもらっていると、
ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。
モモがそういう考えを
引き出すようなことを言ったり質問したりした。
というわけではないのです。
彼女はただじっとすわって、
注意深く聞いているだけです。

その大きな目は、
あいてをじっと見つめています。
するとあいてには、
じぶんのどこにそんなものがひそんでいたのかと
おどろくような考えが、
すうっとうかびあがってくるのです。

モモに話をきいてもらっていると、
どうしてよいか思いまよっていた人は、
きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。

ひっこみ思案の人には、
きゅうに目の前がひらけ、
勇気が出てきます。
不幸な人、なやみのある人には、
希望とあかるさがわいてきます。

たとえば、こう考えている人がいたとします。

おれの人生は失敗で、なんの意味もない。
おれはなん千万もの人間の中のケチな一人で、
死んだところでこわれたつぼとおんなじだ。
べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ。
生きていようと死んでしまおうと、
どうってちがいはありゃしない。

この人がモモのところに出かけていって、
その考えをうちあけたとします。
するとしゃべっているうちに、
ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことが
わかってくるのです。

いや、おれはおれなんだ。
世界じゅうの人間の中で、お
れという人間はひとりしかいない。
だからおれはおれなりに、
この世の中でたいせつな存在なんだ。

こういうふうにモモは人の話が聞けたのです。

(岩波書店 『モモ』 より)

その街に「時間貯蓄銀行」と称する
灰色の男たちが現れました。
男たちは、人々から時間を盗んでいたのです。
人々は「時間がない、時間がない」と言い
モモを訪れる人はいなくなりました。

モモの時間を盗もうとした近づいた灰色の服を着た男。
その時、モモは、彼らが時間泥棒であるという
重大な秘密を聞き出したのです。

そして、モモと時間泥棒たちの戦いが始まります。
全ての人々の時間を取り戻すために…
モモの孤独な戦いが・・・

『モモ』 の中に

「致死的退屈症(ちしてきたいくつしょう)」という
架空の病気が出てきます。
この病気は現代の精神的な症状が見られます。

症状としては主に
◇慢性的な空虚感
◇抑鬱気分
◇絶望感
◇感情不安定
◇社会的関係への無関心
◇情緒的な冷たさ

マイスター・ホラは、下記のように言います。

「はじめのうちは気のつかないていどだが
ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。
どこにいても関心が持てなくなり、
なにをしてもおもしろくない。

だがこの無気力はそのうちに消えるどころか
すこしずつはげしくなってゆく。
日ごとに、週をかさねるごとに、
ひどくなるのだ。

気分はますますからっぽになり、
じぶんにたいしても
世の中にたいしても不満がつのってくる。

そのうちにこういう感情さえなくなって
およそなにも感じなくなってしまう。
なにもかも灰色で、どうでもよくなり、
世の中はすっかりととおのいてしまって
じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。

怒ることもなければ、感激することもなく
よろこぶことも悲しむこともできなくなり
笑うことも泣くこともわすれてしまう。

そうなると心の中はひえきって
もう人も物もいっさい愛することができない。
ここまでくると、もう病気はなおる見込みがない。
あとにもどることはできないのだよ。
うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで
灰色の男とそっくりになってしまう。
そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。
この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ」

「わたしはいままで、人間がじぶんの力で
この悪霊どもの手から
のがれるようになるのを待っていた。
その気になればできたはずだ。
とにかくやつらの生まれるのをたすけたのは、
人間じしんなのだから。
しかしいまとなっては、もう待てない。
なにか手を打たなくてはいけない。
だが、わたしひとりではむりだ」

「わたしはおまえを、
はかり知れないほどの危険の中に
おくりださなければならない。
そしてモモ、いいか、
世界が永久に静止したままになってしまうか
それともふたたび生きて
動きだせるようになるかは
おまえしだいということになるのだよ。
ほんとうにやる勇気はあるかね?」

「そうか。それならわたしの言うことを
ようく聞くんだよ。
これからは、おまえがたよりにできるのは
おまえじしんだけで
わたしはなにもしてやれないのだからね。
わたしばかりではない。
ほかのだれも力をかしてやれないのだ」

『モモ』 は、灰色の男たちによって
時間が奪われたという物語なので
時間の余裕を忘れた現代人への警鐘と
捉えることが一般的です。

けれど、エンデが伝えたかったことは
この「時間」を「お金」に変換し、
利子が利子を生む
現代の経済システムに疑問を抱かせることが
目的だったという事が
のちに発行された『エンデの遺言』という書籍に
記載されています。

このことに最初に気がつき、
エンデに『モモ』の本意を尋ねたのは
ドイツの経済学者、ヴェルナーオンケンです。

『モモ』 の中のモモは、浮浪児です。
子どもであり、
世の中のなんの役にも立たない存在です。
けれど、みんなのなかまで、
みんなの心の中の中心人物なのです。

親が忙しくて、子どもの世話をできないために
モモ以外の子どもは
「子どもの家」にほうりこまれて
じぶんで遊びを工夫することなど、
許されなくなりました。

遊びを決めるのは監督のおとなで
しかもその遊びは
「なにか役に立つことを
おぼえさせるためのもの」
ばかり。

こうして、子どもたちは、
ほかのあることを忘れていゆきました。
ほかのあること、つまりそれは

たのしいと思うこと
むちゅうになること
夢見ること

です。

子どもたちは、小さな時間貯蓄家になってきました。
やれと言われるから、いやいややる。
おもしろくなさそうに、ふくれっつらでやる。

自分たちの好きにしていい~と言われると
なにをしたらいいか、全然わからない。

子どもたちがやれること~~~
それは、ただただ、さわぐこと…
ほがらかにはしゃぐのではなく
腹立ちまぎれに、とげとげしくさわぐことだけ。

1973年の世界の子どもの中に
こんな子どもがいたでしょうか?

21世紀となった今。

まさに、灰色の男たちに支配された世界になっている…と
感じるのは、私だけでしょうか?

今日も言われました。

貴女がやろうとしていることは無謀だ!と…

貴女には過酷な仕事だ!と…

私は、それを仕事だと思ってはいないのです。
私自身がただ、突き動かされて
ただ動いてしまっているだけのこと。

そこには、強制も支配もなくて

たのしいと思うこと
むちゅうになること
夢見ること

そして仲間がいてくれるということ

を、信じたいと思っているのです。

子どもたちが、
自らやりたいと願うことをやれる世の中…
好きなことに時間を忘れて没頭する喜び…
自然と笑顔が出てきてしまう環境…

苛立ちを弱きものにぶつけて
自分も他者も傷つけて
なにがたのしいのでしょう

「こゝろ」の殺し合いの無い世界を…
こそ願いたい。

共に、力を合わせて育つ喜びを感じたい。

それを、わたくしたち~おとなは
創りあげねばならないと思うのです。

「詩人に金をはらう人たちは、
むだに金を捨ててるって言うのかい?
詩人からちゃんと
のぞみどおりのものをもらっているじゃないか!」

「その気になれば、
金持ちになるのなんか、かんたんさ」

「でもな、ちっとばかりいいくらしをするために
いのちもたましいも
売りわたしてしまったやつらを見てみろよ!
おれはいやだな、そんなやり方は。
たとえ一ぱいのコーヒー代にことかくことがあっても
ジジはやっぱりジジのままでいたいよ!」

『モモ』 より

なにもかも灰色で、どうでもよくなり、
世の中はすっかりととおのいてしまって
じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。

そうではない生き方に、
ひとりひとりがきづいていけたら…

もっともっと、やさしく たのしく
世界が自分に近しいものに感じることができて
誰もに、ほんとうのさいわいが
おとずれると思うのです。

 

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お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文を お読みいただけましたら幸いです。

 

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