次女の教科書の短歌を読むと
私が習った過去の短歌とは
様相が異なることに驚く。
『わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん』(寺山修二)
こういう短歌に教科書で触れるのか〜と
しみじみとする。
確かに、音楽の教科書に掲載されている歌なんかも
私にとっての歌謡曲が
「みんなのうた」になってたりするのだから。
1年の教科書には、寺山修司のこんな詩が載っている。
『何にでも値段をつける古道具屋のおじさんの詩』
ぼくは訊ねるーロバとピアノはどっちが高い?
おじさんは答えるーピアノだよ
じゃあピアノと詩集はどっちが高い?
ものにもよるけど詩集が高いことだってあるさ
じゃあ詩集と春とはどっちが高い?
春だよもちろん 季節は超高級品だから
じゃあ春と愛とはどっちが高い?
愛だろう?めったに売りには出ないけど
そこでぼくは最後に訊ねるぼくのいち番知りたい質問
ー愛となみだはどっちが高い?
どっち?
どっち?
子どもは、その問いをしょっちゅう口にする。
思春期を迎え、他人の「どっち」という選択視から
自らの「どっち」の選択をしていくようになるのが
成長というものであろう。
四十路を越えた
夫を含めた夫の友人7人の男性と私。
そのバランスの悪さは
私はちっとも気にならない。
その中の古くからの友人2人は
私にとって
信頼出来る人だから。
その8人で、繁華街から外れた町の飲み屋で語った時
「口には出さないけれど
子どもと俺とどっちが大事なんだろうって
思うことはあるよね」
と、一人の男性。
「女房なんて、いらないから
子どもだけ残して、女房とは離婚したい」
と、一人の男性。
「仕事なんて辞めたいけどさ。辞められない自分が辛い」
と、一人の男性。
飲んだ席だからの本音(?)
でもね。
と、魔女の私は思う。
子どもは手をかけなければ育たない。
あなたは、自分のお母さんが手をかけて
一人前になったのでしょう。
自分が大人になったなら
未熟で未完成な子どものために
励ましたり、手を差し伸べるのが
人としての役割ではないのかな?
赤ん坊がここまで育ってきたのは
やっぱり、精子の力だけではなく
パートナーである配偶者の存在があったから。
自分だけが、妻子を背負って
犠牲になっていると感じるならば
最初の選択を誤った自分を悔むしかないでしょう。
自分の選択に
他者を巻き込むのが家族というもので
家族に巻き込まれるという
その選択をしたのは
誰でもない自分自身。
その自分自身の過去の選択を、今、悔んでも仕方がない。
今が、自分にとって良くない場所ならば
どうにかして、自分自身で良くしようと
私なら、そう思う。
一人になりたい
そういう気持ちは、誰でも持っていて当然だと思うし
一人の時間て、大事だと思う。
じゃあ。
一人になって、何がしたいの?
男性陣は、誰一人、一人でしたいことなんて口にしない。
じゃあ。マリコちゃんは?
(マリコちゃんと呼んでくれる人の存在はやっぱり嬉しい)
今、何が一番したい?
私?
私ね。勉強したい。
だって、四十路を越えても
知らないことはいっぱいあって
あと、どれだけ生きられるかは
わからないけれど
できるだけ、多くのことを知っておきたい。
そして、それを我が子に伝えておきたい。
なぜ、人は生きるのかな〜って思うと
自分の生きた証として、子を生み
その子に、自分の生きてきた姿を見せて
何かを知ってもらったり、何かを感じてもらったり
そして、自分が死んだ後も、生き続けてもらいたいって。
私の生きたこと、感じたこと…
そんなことを伝えて
そこから何かを受けとめてくれたら
それが、私が死んでも
生きた意味はあったのかな〜と思うし。
子を持たない人間でも
それは、同じことではないかな〜って思うの。
そんな魔女の言葉のせいではないのだけど
四十路を超えて、もうすぐ若い女性と結婚する男性が
飲み過ぎてダウンしてしまった。
「お前を連れて来ない方が良かった」
と、自分を省みることのできない男が言った。
どっち?
それを、選んだのは自分なのに。
選んだ結果が、自分の思う通りにならないと
誰かのせいにする。
いつだって「どっち」を選んだのは、私。
人は、自分の思う通りに
生きられるはずなんてないんだよ。
だから、思い描いたものと違っても
現実の中で、より良い方向へと
もがきながら手探りで進んで行く。
中島敦の『山月記』を勉強した高校生。
「中島敦って天才だよ!」
頬を紅潮させて言う。
漢文調の文章が伝える人間の真理。
誰もが持ってる心の澱や影。
それを、目の前に曝け出してくれるものに文学があって
どんな生き方をしても人間なんだと励ましてくれる。
ああ。そうね。
芥川の『羅生門』も
そういう意味での励ましかもしれない。
人は、「どっち」を選ぼうと
励まして応援してくれる人がいれば
なんとか、生きていく力が湧き出流る。
「どっち?」
たくさんの「どっち?」の中で
人は、自分の「どっち」を選んでね。
反省しても後悔しない生き方をすればいいんだよ。
愛となみだはどっちが高い?
その人
その日
その時で
どっちかだったり
どっちでもなかったり
どっちもであったり。
ただ。
言えるのは。
涙を知っているから
愛が愛おしくて
愛を知っているから
涙の重みが理解出来るのだろうってこと。
ただただ、自分以外のものを責めることで
自分を安全地帯に置こうとする人間は
きっと、本当の愛もなみだも知らないのかもしれないね。
それが、しあわせなら、それがあなたのしあわせ。
それを、しあわせと呼ぶなら、それがあなたのしあわせ。
でも、そうでない人もいて
自分と同じでない人を
責める権利は、誰にも無いのだろうけど。
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