記憶の黙示録

成人式 (1987年 – 昭和62年)

2001年1月15日

成人式 (1987年 – 昭和62年) に込め、十九歳のクリスマス は こちらから

年末年始、病院で過ごすのは重症患者くらい

大晦日、病院食とともに 年越しソバ が 出た。

元旦は、なんと 病院食おせちバージョン も あるのだ。

鏡開きには お汁粉も ふるまわれた。

そんな経験も、本当にしてみなければ 分からない。

私は、調子のいい時は 大学の冬休み明けの提出レポートを書いたり、本を読んだりしていた。

一応、許されていたのはベッドを起こし、ベッドの上で過ごすこと。

体調が 悪い時には 吐き気や 頭痛に悩まされ、顔色も悪く 今にも 死にそうな気分になる。

そんな時は、ひたすら布団を 顔まで上げて、24時間の点滴を続けた。

「先生。いつ帰れるの?」

「うんん。お正月の松がとれたくらいかな?」

それを 正月七日と 勝手に思った 私は、

ずっとずっと 成人式 を 楽しみにしていた。


成人式 (1987年 – 昭和62年)

昔、妹が 母と 着物の展示会に出かけ、

十三参り という名目で 着物を 買ってもらった。

私にはおまけのように紬のアンサンブル。

どう見ても 桁が違うのが バレバレ。

お人好しの母が 知人に連れられ、

断りきれず 一緒に連れて行った妹に 着物を買ったのだ。

今なら 笑い話になるけれど、その時の 私は 複雑な 気持ちだった。


成人式も レンタルでいいと言い、

着物屋さんに見に行った。

合わせた着物が とても 似合い、

母は それを 私のために 買い取った。

成人式 (1987年 - 昭和62年)
その着物を着たかったのだ。

でも、成人式1月15日は(当時はその日が成人の日でした)

病院のベッドの上で迎えた。

ようやく、入浴も許され、少しずつ退院のメドが立ってきた頃だった。

お見舞いにも友人達や、家庭教師で教えていた生徒さん達が来てくれるようになった。


成人式 (1987年 – 昭和62年) の翌日

高校時代の男友達がお見舞いに来てくれた。

「昨日、みんなで明治神宮に行ったよ。成人式は出なかったけどね。」
そんな話をしに来てくれた。
彼は私が高校時代からの長い長い時間、ひたすら片思いをしていた人。
多分、私が落ち込んでいるのでは…と、
陰で彼一人をお見舞いに寄越してくれた友達がいたのでは…と。

それが私の成人式の思い出。

その後、次々とお見舞いに来てくれる友人がいて、本当に嬉しかった。

三浪して国立大学に入った友人がいる。
彼は宅浪でバイトをする時間も無く、お小遣いを親からもらっていたのでしょう。
みかんを1ネット買ってお見舞いにきてくれた。
何を話したのかは忘れてしまいましたが、その…みかん。
一緒に食べたそのみかんの味は忘れられない。

ひたすら笑わせてくれて「あっ!傷痛まない?」と言う輩もいた。
(切ってないから傷はないんだけどね)

大学では、私がバイクで転倒したとか、交通事故に遭ったとか、様々な憶測が流れた。
母は、冬休み明けの試験やレポート提出のため、大学へ行き話しをし、
科目によっては試験をレポートに変えて下さる先生もいた。

退院してすぐに試験を受けに行った私に、幽霊を見たように驚く先生もいらっしゃった。

成人式から1週間ほど経った頃。

ようやく退院することができた。

後から改めて考えると、

死んでいたかもしれないし、

後遺症が残ったかもしれない状態だった。

私は母のお腹に宿った時に死んでいたかもしれない。
母が入水自殺をしようとした時。
生まれた直後、腹水を飲んだままで髄膜炎を起こしていた時。

その母の19歳という年齢になった私が、再び死にかけたという偶然。

むしろ、それは必然だったのかもしれない

思春期の頃、「美人薄命」という言葉を信じ(←ここ笑うところ)
自分は30歳まで生きられるはずはないと思い込んでいた。

(今は、やはり自分は美人では無かったのね。と思っていたが、54歳の母が亡くなった時
母の友人が母のことを「美人薄命」と言っていたので、そこまでは薄命と考えましょう。)
この事故をきっかけに、今を生きているということは実に奇跡のようなことなんだと感じた。

クリスマスにチキンを買いに行って死んでしまうこともあるのだ。(まるでマンガだ)
しかも、自転車に乗っていて死んじゃうなんて、「美人薄命」どころかギャグである。

死というものは、本当に生と紙一重に表裏したものなのだ。

大学で学ぶ授業の一コマ一コマがとても新鮮だった。
教授を始め、どの先生方も生き方が学問に顕われていた。

お酒を飲みに連れて行ってもらい「ただのオヤジだ!」と言う友もいたが、
教壇とは違う場で話してくれる話は、とても興味深く、そして距離も近く楽しい時間だった。

就職も、収益を追いかける企業には勤めたくなかった。
幸い、そういう利益優先でない職場で主人と知り合った。
(今や世の中の流れに追われて主人は大変ですが…)

何が幸いするのか・・・それは誰にも分からない。

ただ、死と背中合わせに自分は生きているんだと気づいた時、
大きな幸福を手にすることになるのかもしれない。

母は自分が癌と知った後、

「見えているもの全てが こんなにも 美しい と 思える気持ちに なった」

と 話していた。

私も、母の闘病姿を見ながら、運動会で 走り回る 子ども達の姿を 見て、
あまりの 生命感にあふれた キラキラと 輝く姿に 涙してしいた。

生きているそのことが、それだけで 美しく 尊い。

そう 思えてならなかった。


自分の 肉体は 必ず滅ぶ

では 私の 生きている意味って なんだろう?

生きてることを 奇跡と思う時を過ごすには、

今 この一瞬一瞬を 刹那に生きることでは ないかしら?

縁あって 生まれてくれた我が子に、

自分の精神を 感じてもらうことが

私の 生きた証 に なるのではないかしら?

私が 亡くなった母や弟に恥じないよう生きることが、

彼らの生きた証 で あり、

子ども達に 恥じない生き方を することが

私につながる  そして 子ども達の 未来につながっている
生きた証に なるのではないかと 感じている。

愛するもののために 生きていたい。

目にするもの全てに 感謝したい。

そんな生き方を していきたいと 思う。

成人式 (1987年 - 昭和62年) 小幡万里子

 


2021年1月 母と弟の遺した法人のサイトに COCORO を込めて

 

 

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