記憶の黙示録

十九歳のクリスマス

2000年12月30日

師走の声を 聞き、

街も クリスマスの イルミネーションに 彩られている。

子どもの頃から クリスマスになると、

なんだか心躍って、

家族のために家を飾り付け

(といっても、昔は色紙を細く切って輪飾りをつないだものや、 お花紙を使って花を作ったりと、 まるで幼稚園のお教室の飾りのようなものでしたが)

高校生になると、

父の仕事を手伝い始め、

家を留守にするようになった母の変わりに

サンドウィッチを作ったり、

サラダを作ったり、

お決まりの ケンタの チキンを 買いに 行ったりして

年に一度

家族の 唯一のイベントとして、

私なりに 大切にしていた 家族の時間 だった。

 


十九歳のクリスマス イブ

十九歳のクリスマス 青山学院 女子短期大学 クリスマス

(写真:右が私 左は生涯のたった一人の親友のさっちゃん)

世田谷区 松原 の近所には、ケンタがなく、

ケンタのチキンを買いに 下北沢までいった。

下北は 車で出かける場所ではない。

ゴチャゴチャとした おもちゃ箱のような 街。

冬の寒空を 自転車で駆け抜けた。

チキンを買って 家に帰る 途中のことであった。

当時、電柱から斜めに出ている電線に 黄色い 細い 円柱の カバーが かかっていたことを 覚えていますか?

十九歳のクリスマス 世田谷代田付近

その黄色いカバーが 外されていたため、

電線に気づいた瞬間、

私は 自転車ごと 激突していた。

体が ポーンと 道路に 飛ばされた。

対向から来た車を降りたおじさんが 駆け寄り

「大丈夫か?」

と 声をかけた。

「名前は? 年(年齢)は? 住所は?」

頭は ズキズキしていましたが、

その問いにちゃんと応えた。

「家まで、送ってやるから。」

そう言われ、車に乗せていただき 家まで 送ってもらった。

自転車は その場に 道路の端に寄せ、置いてきた。

「すみません。 ありがとうございました。 お名前は?」

そう問うと、

「名無しのサンタクロースだよ。」

と 答えて 帰って行った。

(後日 心配して 電話をくれた 名無しのサンタのおじさん
確か 車に 電話がついていて 連絡のため 家の電話番号を聞かれ、妹に電話したような記憶が・・・

きっと その時の若い女子大生を心配してくれたのでしょう。

しかし! 「お前が車で轢いたんじゃないか!」 と サンタのおじさんに 父が怒鳴ったようです)

そんな中、私はチキンだけは持ち帰っていたようだった。

(家族が大変な騒ぎの中、お腹を空かせた中学生の弟は そのチキンを食べたそうですから。)


家に帰り、

妹に

「私、自転車で転んで、なんだか具合悪いから寝るね。」

そう言って、布団の中に潜り込んだ。

すると、天井がぐるぐると回っているのだ。

これは尋常じゃない!

妹を 呼び

「お願い!救急車を呼んで!」

救急車が来て、運び出されたところまで 覚えている。

その後の記憶は 一切無い。

救急車の 中で

「触らないで!」

と 怒鳴っていたり、

「痛い! 痛い!」

と暴れたりしたそうだ。 (妹 談)

次に 気づいた時は 病院で レントゲンを 撮られていた時だった。

「あらっ? 気づいたみたいです。」

看護婦さんの ボオォ っとした

その声は しっかりと 覚えている。

駆けつけた両親に

「こんな人、知らない!」

と言い、

母はショックを受けたそうだ。

そこは 救急を引き受ける 古くて汚れた病院で、

(現在は存在しないようだ)

私は 絶対安静 ということで、

今にも 死の淵にいる おばあさんと二人で ICUに入れられていた。

おばあさんは 「ハアハア」 と 酸素マスクに 繋がれている。

私は、ずっと 点滴に繋がれて トイレにも 行けない。

「トイレに 行きたい」

というと、

尿瓶を 持ってこられた。

「嫌だ! こんなのじゃ出来ない! トイレに行く!」

そう言っても 許されない。

寝ながら 尿瓶に排尿するということが、

どれだけ 屈辱的で どれだけ人間の尊厳を 失わすことか…

この時に、普通に食べること、排泄することがどれだけ有り難いことで

人間のプライドとは どういうことかを 身を以て感じた。


後2日で、この年も終わる

その日に、病室を抜け出し、家に電話をかけた。

「もう、この病院にはいたくない。家に帰りたい。こんな病院にいられない。」

(後で聞いたところ、救急で ここの病院に かつぎこまれた患者は ほぼ 死んでいた。

ヤブ医者で名を馳せ、ここに運ばれたらお陀仏だ! と 噂されていた。)

母は、

すぐさま 飛んで来て

「今、退院したら どうなっても知りませんよ。」

という 医師の言葉を 背に

私を 家に 連れ帰ってくれた。


しかし、確かに 家にいて 大丈夫な状態では なかったようであった。

翌日、

弟が 過去に 交通事故で 入院していた 昭和大学病院の 脳神経外科に

母が連 絡し 大晦日にも 関わらず 診ていただいた。

まだ、年若い外科医の先生。

土居 浩 先生 だ。


〈某サイト より〉
脳神経外科一般 (脳血管疾患、減圧症、突発性難聴など)、脊髄外科 小児脳神経外科

土居浩医師は、荏原病院脳神経外科の部長として、同領域疾患の治療にあたる。
また、日本臨床高気圧酸素・潜水医学会の専門医であり、高気圧酸素治療室の管理医も務めている。荏原病院は2人以上同時に治療できる高気圧酸素治療装置が設置されいる施設で、日本でもまだ50ヵ所ほどしかない。
この治療法では、体内の酸素濃度が上昇して、高い圧力が身体にかかることで様々な効果が得られ、脳血管疾患、減圧症、また突発性難聴などの救急疾患の治療に成果を上げている。
なかでも突発性難聴の治療例が最も多い。

2017年4月より牧田総合病院の脳神経外科に異動。

医師プロフィール
1980年 3月 昭和大学 卒業
1990年 9月 Royal Adelaide Hospital
1991年10月 山梨赤十字病院脳神経外科部長
1993年10月 都立荏原病院脳神経外科医長
2004年 1月 都立荏原病院脳神経外科部長
2017年 4月 牧田総合病院 脳神経外科
(更新日:2018年1月17日)


とても 優しい物言いで

「CT(当時最先端の検査でした)で 視たところ 脳に 血腫があるんだ。
申し訳ないけど 医者として このまま 君を おうちには 帰せないな。
とりあえず 薬物療法で 血腫が消えるか試して
もしも 消えなかったら 頭を 切らなきゃいけない。
だから 少し 我慢して 入院してくれるかな。」

そう言われて、そのまま 即 入院となった。

幸い 先生の計らいで ベッドを空けてもらえ 6人部屋に 入院した。

その夜…  涙が止まらなかった

痛みがあったためか 再び 入院となったためか、
自分で 思う以上に 大変な 事実を 知ったからか…

どの思いがこみ上げてきたのか 分からないが、

一晩中、声を殺して 泣いていた。

きっと 6人部屋の、

髄膜炎の若いお母さん、

脳腫瘍で入院中の 痴ほうの様相の おばあちゃんも

脳腫瘍で 手術後のおばあちゃんも、

なんの病気だったか 分からないけれど

退院間近のおばちゃんも、

みんなみんなに 聞かれていたのだと思う。


この若い先生は、

私が トイレに自分で行きたい という願いを 受け入れてくれた。

24時間 点滴に 縛られていたが、
ベッドを 上げて 本を読むことも、
食事も許してくれた。

教授の回診で、

「白い巨塔」のように

偉そうに みんなを ズラズラ従えた じいちゃん先生が

「この患者は ベッドを起こしちゃダメだろう。 誰だ! そんな許可をしたのは! 」

と、 カルテを見て 怒鳴っていた。

私は こういう じいちゃんは嫌いなので、

フン!

と そっぽを 向いていた。

カルテに書かれた病名が 私ではなく、

この目の前にいるのが

私なのです!

いい年して そんなことも分からんのか!

って思っていた 十九歳のクリスマス

 

成人式 へ続く

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1 Comment

  • Reply 2021年 新成人の皆様おめでとうございます – Pure Inc. 2021年1月12日 at 6:00 AM

    […] ンボンを作って飾りつけをし、 料理は、サンドイッチを作り、下北沢のケンタッキー・フライド・チキンに、チキンバーレルを買いに行くのが常だった。 その日のことは こちら にて。 […]

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