電車の中で

満員電車

2009年6月5日

 

今朝は、電車が止まっていた。

出発駅で足止め…
20分待って、30分かかって、新宿まで着いた。

 

ようやくやってきた電車の中… 押し合いへし合い…

 

私の左足は宙に舞い、私の身体は、若い男性に密着。
それは、いいのだけれど(いいのか?) 私の右手は、その彼の危ない場所に・・・(汗)
「す、すみません。身動きできなくて・・・」
謝るその間も、電車が揺れる度に、
私の身体が彼に倒れ込む・・・

 

私のシャネルのNo.5に発情したらどうする?
なんてことを考える余裕もなく、
息が止まるくらいの圧迫感に、まさに青息吐息だった。

 


 

各駅停車で駅に止まる度、降りる人と、降りたら乗れない~とばかりに
出入り口近くで踏ん張り続ける人がいる。

 

「すみません。出入り口付近の場所を空けて差し上げてください。
降りられる方のために、場所をお譲りください」

 

まるで、駅員さんのようだけれど、無言で押し合う人の無表情が怖くて
つい、そう声を出した。

 

私自身も、一旦、電車から出て、降りられる方に道を作る。

 

「ありがとう」 そう言って、降りていかれるおばさまがいらした。

 

各駅に着く度に、そう声を出していた私に、徐々に、
車内の皆様 ドア付近を降りる方のために、
場所を空けてくださるようになった。

 

きっと、気持ちは同じなのだよね。

 

朝から、厭な気持ちにはなりたくないし、
できれば、気持ちのいい朝にしたい。

 


 

女子高生が、「もう、痛いし~。キツいし~。信じられないし~」 と、騒いでいた。

 

周りの大人は、不機嫌そうに彼女たちを見る。
女子高生は、自分が世界の中心にいるから、自分だけがつらいのだと思っている。
おじさんも、おばさんも、同じように 「痛いし~。キツいし~。信じられないし~」なんだけれどね(笑)

 

でね。
おせっかいなワタクシ・・・
「大変だよね。毎日、いろんなことがあるよね。大丈夫?」
と、聞いた。

 

「あ。はい。大丈夫です」
ちょこっと、彼女たち、静かになった。

 

きっとね。
苦しい体勢で、大人たちが無言でいる怖さを
騒ぐこと~こういう言葉で表すことで、心の不安を吐き出していたのかもしれない。

そんな時、
「大丈夫?」~そんな一言が欲しかったのかもしれない。

 

その高校生が、不意に、身体を膠着させて 「げ!誰か触ってる」と呟いた。
「まじ?」と、近くの友だちが聞いた。

 

彼女の後ろにはおじいさんと呼べそうな年配の方。
まったく、素知らぬ顔でいる。

 

「お尻、触られてる?」と聞くと
「・・・ん」と小さな声で答える。

 

さっきの騒がしいほどの元気は、嘘みたいだけれど
痴漢に遭うってそういう状態になってしまうもの。

 

彼女の後ろに向かって
「ちょっと、どなたかの手がぶつかっているようなので
申し訳ございませんが、気をつけていただけますか?」
と、声を出した。

 

彼女が、ホッとした顔をした。

 

「大丈夫?」と聞くと
「ありがとうございます」と、彼女が答えた。
近くのお友だちは、口元をハンカチで押さえていた。
「気持ち悪い?空気悪いものね。大丈夫?降りようか?」 と聞くと、
「大丈夫です。すみません」 と答えた。
女子高生たちも、新宿で降りた。

 


 

彼女たちはエレベーターで上ったらしく、階段を上がった私と改札口の近くで会った。

 

「あ。本当にありがとうございました」
と、女子高生たちが言った。

 

「大変だったね。気をつけて行ってらっしゃい」
私が、そう言うと、にっこりと笑って改札を出て行った。

 

私はね・・・ そんな無駄なことばかりしているの。(苦笑)

 

でもね。
混雑した電車を降りる時、そんな一言の声かけが
押し合うことの苛立たしさを、少しでも、薄めることができるかもしれない。

 

なにより、少しの思いやりは、身体はもちろん、心を怪我する人や 傷つけられる人が減るかもしれない。

 


 

その一言のどこが恥ずかしいのだろう?

 


 

 

自分の声が、誰かの心に届いて、優しい行動につながるならば 恥ずかしいことなんて無いと、私は思う。

 

お尻に触れたその手は、悪意の無い手であったかもしれない。
それでも、女性は、自分の身体に無作法に触れられることを生理的に不快にしか感じない。

 

その時、言葉を持たない、まだ、幼い乙女の代わりに
ほんの一言を惜しむことを、私は憎む。

 


 

彼女たちが、大人の女性になった時、
その若さを妬むのではなく、その幼い乙女の気持ちを思い起こして
言えない言葉の代わりに、大人として、救ってあげることができたなら・・・

 

私という存在が消えた後も、私が存在していたといえるよね。

 

生きる意味は、子孫を残すことでも、自分の名声を残すことでもなくて
こうして、人として伝えたい想いを、残したい優しさを
自分の行動と存在で、精一杯、表わすことではないのかな・・・

 

言葉なんて、移ろいやすいものだけれど、
その言葉に、心があったら、想いがあったら
これほど、強いものはないのではないかな?

 

その言葉を形にするのが、行動なのだと思う。
行動だけでなく、その伝えたい想いを、大切にすることが
きっと、誰かの未来に、なにかを残すことになるのではないのかな…と思った。

 


お時間ございます方は、

今COCO にある ESSAYS IN IDLENESS – 徒然なるままに

電車の中で の拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 

 

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