東京の電車に乗っていると広告に驚かされる。
私の高校生時代。
私立高校として、あるいは女子私立高校として存在していた学校が
中学を併設し、果ては、「この春、大学を開設」なんて広告ばかりが
電車の壁に並んでいる。
当時、それらの私立高校は
単願推薦で、都立高校、あるいは有名私立高校に
手の届かないような生徒が
「高校くらいは出ておかないと」という意識の中で入学する
受け皿のような高校だった。
そんな高校が、中高一貫校となり
小学校を卒業した児童からの抱え込みに入った。
親も、どうせ、この程度の高校に入れるならば
高校受験の大変さよりも、中学受験でさっさと安全を手に入れたい。
さらに、そんな私立中高一貫校で過ごした生徒のために
大学まで用意しようと新設大学を作ったりもしていることに驚いてしまった。
たとえ、当時の不良少女のシンボルであった
床まで届くようなスカート丈の生徒であっても
引き受ける学校としてのポリシーは
各々の高校で掲げていたかのように感じるのだが
今や、生徒の確保に目を奪われ
生徒はお客さんとして、住み心地の良い場を提供される。
お金を出して、学校に通ってきてやっているんだ!という横柄な態度は
とても、中学生、高校生、大学生の姿とは思えない。
私は、演劇をやるから~と、高校時代に好きなことだけを追いかけた。
そして、浪人生活を余儀なくされた。
好きなことをするにも、地道な努力は必要で
学生でもない、社会人でもない自分が
世の中にとって、なんの価値もない存在であったのだと
精神的に、追い込まれもした。
誰かのために、何かをする~
それが、大切なことだと、ちょこっとだけでも気づくことができたので
その苦しい時間は無駄ではなかったとは思う。
だが、その時間をもう一度過ごすことは、躊躇われてしまうけれど。
無駄のない人生は、楽しみも少なく、潤いに欠ける人生なのかもしれない。
気づくことさえできないほど、与えられることに
慣れてしまっているのが、現代の日本なのであろうか。
そうして、学生となった時
簡単に女子大生という地位を手にした一つ年下の友人からは
私は、どこか違う人間に思われてもいたようだが
そこに、自分がいるべき場所のあることは
大きな安心であるということも、自分で納得していた。
あまりに安心し過ぎて、そこから抜け出せなくなる
蟻地獄にハマっては危険だが
精神の安定というのは、その所属感があってこそなのかもしれない。
長女も、編入試験で、一校目が不合格であった時
「高校へ行くことを、当然だと思っていたけれど
通える学校のあることは、有り難いと思わないといけないね」
という言葉を口にした。
電車の中の、広告を見ていて
なんだか、モヤモヤとした苛立ちを感じるのは
与えられることを当然と思わせるような
教育の大安売りが、そこここに、散らばっているからかもしれない。
教育は、いつからバナナの叩き売りになったのだろう?
バナナの叩き売りさえ、その口上に技があるというのに
電車の壁一面に貼られた広告には
それさえも感じられない。
お時間ございます方は、
今COCO にある ESSAYS IN IDLENESS – 徒然なるままに の
電車の中で の拙文をお読みいただけましたら幸いです。
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