駅で、ベンチに座っている中年男性がいた。
電車が来ても、目を瞑ったまま立ち上がろうとしない。
「電車が来ましたよ」
と、何度か声をかけたのだが反応がない。
顔色が悪く、微動だにしない。
以前、隣りに住んでいたおばあさんが
出先のタクシーの中で心臓発作で死亡し
そのタクシーで還らぬ人となって帰宅した。
友だちのお母さんは、心臓に癌ができていたことを知らず
買い物をして、自宅のソファで休んだまま亡くなっているのを
夜、帰ってきたお父さんがみつけた。
そんなことを見聞きしていたので
「もしかして」と不安になった。
最近は、ホームに駅員さんはいない。
改札口まで階段を駆け下り
駅係員のいるガラス窓を叩いた。
「下りのホームで、体調を崩されていると思われる方がいます。
電車が来ても、ベンチに座ったままで
声をかけても反応がないので、ちょっと、見て差し上げてください」
「不審者ではないのですね?具合が悪そうなの?」
「ええ。体調が悪いようなのです」
「わかりました。後から行きます」
今度は、階段を駆け上り、その男性にもう一度。声をかけた。
「大丈夫ですか?」
恐る恐る、その男性の肩を叩いて
耳元で、大きな声で呼びかける。
「大丈夫ですか?」
その時、うっすらと目を開けた。
目を開けると、再び、目を閉じる。
「大丈夫ですか?お加減はいかがですか?」
「大丈夫」
「電車が来ておりますよ」
「大丈夫」
午後3時の平日の酒臭い息に、こちらの気持ちも重くなる。
改札に声をかけて、10分くらいして
駅員さんがやってきた。
「今、お声をかけましたら、反応がありました」
「お客様。大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「ここ(ベンチ)に居て、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
そうして、駅員さんは去って行った。
たくさんの酔っぱらいが、こうしてベンチに佇んでいるのであろう。
駅員さんにとって、不審者や不審物ほどに
具合の悪い人間は、大事ではないのだろう。
この中年男性が、いつから、このベンチに座っていたかわからない。
しかし、普通でない気配を誰もが感じていたことであろう。
それでも、誰一人、この男性に声をかける人間はいなかった。
わけのわからないものに関わらないことが
賢明と呼ばれるのであろう。
が、しかし。
この男性が、もしも、
自分の父親だったら、
夫だったら、
息子だったら、
友人だったら~
そんな風に、考えることはできまいか?
男性でなく、
女性であっても、
自分の母親だったら、
姉妹だったら、
娘だったら~
それでも、見えないものとして
素通りできるのであろうか?
つまらないお節介で、義侠心で
自分が怪我をすることもあるから~と
見て見ぬフリをすることが
賢い生き方になった最近。
駅員さんも、人件費削減、機会化された合理的社会の中で
人を見るのではなく、法に触れる人間の確保にこそ
力を注がねばならなくなった。
なんだか、寂しい、哀しい世の中ね~と思う。
電車を降りる時
降りる人が先、乗る人は後~と
子どもの頃から教えられた。
今、電車が駅に着く度
我先に乗り込む人
降りる人に場所を空けず、ドアの真ん前で立ちすくむ人
「混んだ電車を降りる時
すみません。降りますので、ちょっと通してくださいますか?
って、声を出しなさい。
その一声で、場所を空けてくれる人もいるのよ」
と、子どもたちに話す。
電車を降りる時
「すみません。降りますので、通していただけます?」
と、私は声を出す。
その一言で、気づく人もいる。
黙って、背中を押して
人を押しのける人間よりも
誰かの心は、優しくなれるのではないかと思う。
ベンチの男性は、酔っぱらいだったが
本当に、心臓が止まったり
脳の血管が破裂して
ベンチに座り続ける人だっている。
だから、私は、声を出さずにいられないのだ。
お時間ございます方は、
今COCO にある ESSAYS IN IDLENESS – 徒然なるままに の
電車の中で の拙文をお読みいただけましたら幸いです。
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