『こころ』 夏目漱石
上 先生と私
夏目漱石 といえば、岩波文庫で読まなくちゃ!
と思いつつ、鑑賞と題して載っていた
作家 吉永みち子 さんの文章(解説)にぶったまげて
集英社文庫を買ってしまった。
久々に読み返し
私って深層の中で漱石先生に
かなりの影響を受けていたのだと再確認。
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。
だからここでもただ先生と書くだけで
本名は打ち明けない。
これは世間を憚る(はばかる)遠慮というよりも、
その方が私にとって自然だからである。
私はその人の記憶を呼び起こすごとに、
すぐ「先生」といいたくなる。
筆を執っても心持は同じ事である。
よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
自分にとって特別な人は
「先生」なんだね〜って
以前、言っていたよ。 私…
「私は世の中で女というものを
たった一人しか知らない。
妻(さい)以外の女はほとんど女として
私に訴えないのです。
妻の方でも、私を天下に
ただ一人しかいない男と思ってくれています。
そういう意味からいって、
私たちは最も幸福に生まれた人間の
一対であるべきはずです」
私も男は主人しか知らないし。
(向こうはわからんが)
幸福であるべき人間の一対として
人生を歩みたいと願っているのだよ。
……しかし君、恋は罪悪ですよ。
愛は深い情合(漱石はあえてこの字を使う)の上にあるが、
確かに、恋はすべて抛って(なげうって)まで
手に入れたいと願うことがある。
そうした意味で
(「先生」もKへの裏切りという形で、友情を抛った)
「恋は罪悪」と決めつけているのであろう。
これは、『漱石と鴎外』に書かれていたが
漱石の妻、鏡子夫人が自殺未遂を起こしたきっかけに
女性の影があったとも言われている。
漱石の作品に出てくる
智に長け情を持つ女性が
漱石先生の側にいたのだろうと推察する私。
人間全体を信用しないんです。
私は私自身さえ信用していないのです。
つまり自分で自分が信用できないから、
人も信用できないようになっているのです。
自分を呪うより外に仕方がないのです。
かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、
今度はその人の頭の上に
足を載せさせようとするのです。
私は未来の侮辱を受けないために、
今の尊敬を斥けたいと思うのです。
私は今より一層淋しい
未来の私を我慢する代わりに、
淋しい今の私を我慢したいのです。
自由と独立と己れとに充ちた
現代に生まれた我々は、
その犠牲としてみんなこの淋しみを
味わなくてはならないでしょう。
信じたいと思う自分を感じながら
自分を守るためには
人を信用しない方が、楽なのかもしれない。
「私」は「先生」に言う。
私「先生の過去が生み出した思想だから、
私は重きを置くのです。
二つのものを切り離したら、
私にはほとんど価値のないものになります。
私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、
満足はできないのです」先生「あなたは大胆だ」
私「ただ真面目なんです。
真面目に人生から教訓を受けたいのです」先生「私の過去を訐(あば)いてもですか」
先生「あなたは本当に真面目なんですか」
先生「私は過去の因果で、人を疑りつけている。
だから実はあなたも疑っている。
しかしどうもあなただけは疑りたくない。
あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。
私は死ぬ前にたった一人で好いから、
他を信用して死にたいと思っている。
あなたはそのたった一人になれますか。
なってくれますか。
あなたははらの底から真面目ですか」私「もし私の命が真面目なものなら、
私の今いった事も真面目です」先生「よろしい」
先生「話しましょう。
私の過去を残らず、
あなたに話して上げましょう。」
その「私」の真面目さが
「先生」のこころを揺るがし
「下 先生と遺書」に続く。
『こころ』 夏目漱石
下 先生と遺書
私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。
両方とも世間から見れば、
生きているか死んでいるか分らないほど
大人しい男であった。
他に認められるという点からいえば
どっちも零であった。
それでいて、この将碁を差したがる父は、
単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来をした覚えのない先生は、
歓楽の交際から出る親しみ以上に、
いつか私の頭に影響を与えていた。
ただ頭というのはあまりに冷やか過ぎるから、
私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、
血のなかに先生の命が流れているといっても、
その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、
先生はまたいうまでもなく、
あかの他人であるという明白な事実を、
ことさらに眼の前に並べてみて、
始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
私もまた、私にとって
肉親として血のつながった父親よりも
私に学ぶ事の意味を教えてくださった
栗坪教授の言葉の方が
私の中に生命として流れているのかもしれないと思う。
『こころ』 の中の 「先生と私」
それは、人を信じる事を諦めようとしていた「先生」と
どこまでも「先生」を信じ
「先生」に情合を感じる「私」との出会いと
その『こころ』の動きが描かれている。
「私」が「先生」に惹かれるのはなぜか…
「先生」のそれまで培った思想への
「私」の尊敬と同調、興味、関心が
「先生」という人間への
深い情合につながっていったからであろう。
そして、それは「先生」が過去の親戚からの裏切りと
Kへの我が身の裏切りによって
奥さんさえも回復できないほどに
失いかけていた「信」という『こころ』を
取り戻すきっかけにもなったのだと思う。
青空文庫 夏目漱石 『こころ』
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中 両親と私 『こころ』
『こころ』は、上 が36回。
中 が18回。
下 が56回。
から成っている。
「中 両親と私」は、血のつながりよりも
志の絆の強さを際立たせ
死の床にいる父親よりも
すでにこの世にいないと予想される
「先生」の元に駆けつける場面で終わる。
『坊ちゃん』で漱石が田舎者に寄せる
歯痒い思いを描いている部分を
『こころ』では自分の両親を田舎者代表として登場させ
「先生」の志の高さと対比している。
私は田舎の客が嫌いだった。
飲んだり食ったりするのを、
最後の目的としてやって来る彼らは、
何か事があれば好いといった風の人ばかり揃っていた。私は子供の時から彼らの席に侍するのを
心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、
私の苦痛はいっそう甚しいように想像された。しかし私は父や母の手前、
あんな野鄙な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、
父が平生から私に対してもっている不平の全体を見た。私はその時自分の言葉使いの
角張ったところに気が付かずに、
父の不平の方ばかりを無理のように思った。
漱石の描く高等遊民はスマートだ。
泥の中を生きているような人間を
嫌っている〜というか理解できない。
その地に根ざした生き方を認めようとしても、
どうしても相容れないものを感じ闘い
時に諦めていくのである。
そして
「私」というものを追求していく。
『それから』 の代助然り。
『こころ』 の先生然り。
Kもまた然り。
食べるために経済的な活動をするよりも
生きる意味を確認するために
経済活動を超えた天職を持つことを理想とする。
そこには人との利害もなく
己の志を貫くためにのみ世界が存在する。
人間らしい生き方とは
衣食住足りて、糊口のために働くことか
自分の思想を貫くことを
人間らしいと感じることなのか…
そんな世界はあるのか〜ないのか…
それを、漱石は「則天去私」という言葉で
昇華しようとしているのだろう。
田舎者…という言葉で
片付けてしまってはならないのだろうけれど
風土というものは
人間の人格形成に大きく関わっている事は事実であろう。
私は、都会で生まれ、都会で育ち
希薄な人間関係の中で人間関係を会得した。
結婚し、都会を離れ、西日本の瀬戸内で
聞き取れない言葉に理解ができず
ただ笑顔を見せているだけの自分が
とても惨めで許せなかった。
子育てを通じて、ともに励まし合う友人ができて
なにより都会育ちのものを知らぬ若い女の子を
お姉さんのように受容してくれる
心の寛さをもった女性たちと知り合えた事が救いだった。
主人が言う。
「お前は、オレの家族を見下しているのだ。
その気持ちが通じるから上手くいかない」
結婚当初、義母とスーパーに買い物に行った時
水物をこぼれないようにと入れるために
ロールで置かれているビニール袋を
「これは家で使うのに便利だから」と
グルグルと巻き取る義母の姿に
どうしても、受け入れられない気持ちを持ってしまった。
義母は義母。
自分は自分なのだから
それでいいじゃない〜そう思いながら、
そういうことを平気でできる…
そういう心持ちをもっていることが
若い私はどうしても許せなかった。
義母のいいところもみつけようと思うし
田舎の人特有のおせっかいなまでの
相手を心配する姿は、大変ありがたい。
しかし、結婚し挨拶周りに行く時のしきたりや
作法にうんざりし
その私の気持ちに気づかない(当然のようであった)
主人に怒りを感じたのも嘘ではない。
都会は人間関係が希薄であるとは言うけれど
濃密な人間関係の中に
突然に投げ込まれた人間にとって
それが濃密であればあるほど
逆に孤独を感じるのである。
希薄であると思われている都会人は
その互いの距離を推し量り
相手のテリトリーに
どこまで侵入しても許されるのか
あるいは自分のテリトリーに受け入れるのに
どこまで許すのかを、瞬時に判断する。
そして、その最初に許された
テリトリーの中で留まるのか
さらに先を許されるのかも、
その間柄によって進行する。
それが、スマートな人間関係に
つながっているのであろう。
漱石の描く田舎者というのは
遠慮なしにズカズカ踏み込む。
あるいは、最初のわずかの判断で決めつけて
相手をよく見ることをしない。
そういう世間として描いている。
そしてまた、父親というものは
いつの時代も一昔前の人間なのである。
今を生きる若い人間と
過去の若い人間とが相まみえる時に
重なり合えない部分の方が多いのかもしれない。
そして、血という呪縛から本当に解き放される時
(それが現実の親の死であったり
または精神的に親の死を意識した時であったり)
真の自己を発見し
己として生き始めるのだろう。
『こころ』の「私」は死の床にある父親を捨て
「先生」の元に走る。
「先生」は若くして両親を亡くした。
自分を自分として生きるために
自己を成立させるために
「私」も「先生」も
親を殺す必然がここにあったのだろうと思う。
下 先生と遺書 『こころ』
『こころ』の核心は
この 下 の 先生と遺書 にある。
簡単に言えば、
「先生」と「K」、お嬢さんの三角関係から、
「先生」に出し抜かれたことをきっかけに
「K」は自殺する。
Kは小さなナイフで頸動脈を切って
一息に死んでしまったのです。
外に創らしいものは何にもありませんでした。
私が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、
彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。私は日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。
そうして人間の血の勢いというものの
劇しいのに驚きました。
漱石は本当にすごい!
と思うのは、
「先生」がお嬢さんに好意をもつ気持ちの
細かな揺れ動き。
また「K」への嫉妬心、猜疑心
そして自分への羞恥心や弱さ
その心理描写を克明に描き出す筆致である。
この場面。
そうして振り返って、
襖に迸っている血潮を始めて見たのです。
その血潮こそ
彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。そうして人間の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。
というのである。
す…すみません。
ゾクゾクしてしまう〜私って危険でしょうか?
「K」の死をみつけた時
その時私の受けた第一の感じは、
Kから突然恋の自白を聞かされた時の
それとほぼ同じでした。
私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、
あたかも硝子で作った義眼のように、
動く能力を失いました。私は棒立ちに立ち竦みました。
それが疾風のごとく私を通過したあとで、
私はまたああ失策(しま)ったと思いました。
もう取り返しが付かないという黒い光が、
私の未来を貫いて、
一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫(ふる)え出したのです。
という表現。
なぜ、このような文章が書けるのか…
不思議でならない。
死を目にしてこそ、書ける文章ではないだろうか…。
私が弟の死を目にした時
母の死に逝く姿を見ているしかなかった時
そういう経験をしたものが、この文章を目にすると
やはり、漱石!只者でない!
と感ずるのである。
恋が破れただけで人は死ぬのだろうか?
「K」は医者になるために養家にもらわれるが
それよりも生家の寺の影響か
宗教というものに心惹かれている。
聖書を読み、基督教に関心も持ち、
コーランも読んでみたいと言う「K」
Kは昔から精進という言葉が好きでした。
私はその言葉の中に、
禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、
それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、
私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだ
というのが彼の第一信条なのですから、
摂欲や禁欲は無論、
たとい欲を離れた恋そのものでも
道の妨害になるのです。Kが自活生活をしている時分に、
私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。
常に自分を肉体的にも精神的にも
ギリギリの状態においているのが
「K」の生き方であった。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
この「K」自身が口にしていた言葉を
「先生」から聞かされた「K」は自分を恥じたのであろう。
私は「K」のように立派な人間ではない。
田舎者を田舎者!と
笑うだけの人間でないこともわかっている。
また、地方に住む人全てを
十把一絡げにしているわけでもなく
漱石が出会った人間を象徴的に
都会人と田舎者にわけているよう
あるひとつのエクスプレッションとして
受けとめてもらいたい。
自分は他人とは違う。
野鄙で自分と受け入れ難いものとは異なり
もっと高尚で、他人に簡単に理解できない
高みにいるのだと自分に酔っている「K」。
ところが、そのヘンのバカモノの若者と同じように
恋なるものをしてしまった。
感情というものはコントロールしようとしても
容易くできるものではない。
特に恋は、自分の脳でありながら
どうしようもない情熱で揺り動かされてしまうのである。
この恋は野鄙な恋とは違うはずだと言い訳をし
「先生」である私に
肯定してもらいたかったのだろうと思う。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
という、自分が口にしていた
愚かな人間への見下した言葉を
「先生」から浴びせかけられたその羞恥と
「K」が今まで自分の「こころ」の中に
見出さなかった自分自身への猜疑。
それが「K」自ら持ち続けた「精進」の心を失わせ、
アイデンティティまでを失わせてしまったのではないかと思う。
私は、自分に真っすぐに
生きていたいと常々思っている。
しかし、実際、自分で納得のいかない
他からの暴力を受けると
攻撃的になったり、
逆に必要以上に自分を責めてしまうことがある。
「こう思われる自分にこそ、
なにか悪い所があるのかもしれない」
そう思い、責めなくていい
自分を責めてしまったりする。
もっと、自分に余裕があればいいのに…
と思ったりもする。
漱石の「個人主義」も「則天去私」も、
この余裕のことなのかもしれないと思ったりもする。
「K」は泰然として悠然として、博学で見識もあり
実に優れた男であった。
そして自己に忠実であった。
その自己に囚われてしまったゆえの自殺だったのかもしれない。
同時に私はKの死因を
繰り返し繰り返し考えたのです。
Kは正しく失恋のために死んだものと
すぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、
同じ現象に向ってみると、
そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、——それでもまだ不充分でした。
私はしまいにKが私のように
たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、
急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄(ぞっ)としたのです。
私もKの歩いた路を、
Kと同じように辿っているのだという予覚が、
折々風のように私の胸を横過り始めたからです。知らない路傍の人から
鞭うたれたいとまで思った事もあります。
こうした階段を段々経過して行くうちに、
人に鞭うたれるよりも、
自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、
自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、
死んだ気で生きて行こうと決心しました。必竟私にとって一番楽な努力で遂行できるものは
自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。
もし自分が殉死するならば、
明治の精神に殉死するつもりだと答えました。乃木さんはこの三十五年の間、
死のう死のうと思って、
死ぬ機会を待っていたらしいのです。それから二、三日して、
私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、
あなたにも私の自殺する訳が
明らかに呑み込めないかも知れませんが、
もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る
人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違
といった方が確かかも知れません。
なぜ、自殺するのか…
遺された者には理由はわからない。
死ぬだけの理由があるのかないのか。
自己に囚われ
不自然な暴力で死ぬことを選んだ者。
「先生」はこう最後に結ぶ。
妻が己れの過去に対してもつ記憶を、
なるべく純白に保存しておいてやりたいのが
私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、
妻が生きている以上は、
あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、
すべてを腹の中にしまっておいて下さい。
「先生」!
それは甘いよ! と思う。
夫に自殺され、
過去の記憶が純白に保存されるはずはなかろうと。
鑑賞として文末を拝している吉永みち子氏は
お嬢さんは奥さんとして
すべてを知って生きているたくましさを持っている
と言う。
すべてを知っているかはわからずとも
たしかにたくましく生き抜くだろう。
お嬢さんであった奥さんは
自己に囚われた「K」の生き方に
「先生」が囚われて死んだとは思わないであろう。
が、しかし。
女は生きていくのだ
「K」の生き方、死に様はある意味
納得もでき、美しさを感じる。
「先生」は、死して不変となった〜
「K」の変わりようのない高尚さに敵わないからこそ
自分を卑下しながら生きていくことが
逆説的に美しい生き方だったのかもしれないと思う。
が、そこまで自分を追い込んで突き詰められるほどの
精神力を保てなかったことが
「先生」の負けなのかもしれない。
奥さんは、それでも生き続けるであろう。
諸説で言われているように
「私」と生きることをともにしているのかもしれない。
そして私は、
二人は子を授かり
それを生きる力にしていると想像するのである。
吉永氏のいうように、女はたくましい。
それと同時に、私は
「K」のようなストイックな自己に
囚われる男性を美しいと感じる。
「先生」も「K」の生き様に
美しさを感じていたのかもしれない。
自殺が連鎖する理由に
こういうこともあるのかもしれないけれど…
しかし、そこで生き続ける
泥臭い生き様こそが
自己に囚われた人間の死を超える
強さになるはずなのに…と思う。
「私」はそうして、生き続けるのであろう。
百年を経ても愛される文学。
漱石と岩波書店の絆。
人の 『こころ』 に影響を与え続ける 夏目漱石 ・・・
デジタルでは感じられない ぬくもり を私は愛す。
(2020年2月22日 ここに記す)
私の漱石先生へのラブレターは 「漱石先生」 でご覧いただけます。
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