『漱石と鴎外』
『漱石と鴎外』 高橋昭男著
まえがき
第一章 夏目漱石の話
1 建築家と小説家を志す
夢はピラミッド建造
小説家は次点の夢
英語との出会いは十二歳
正岡子規との親交
ペンネームは間に合わせ
卒業生はたった一人
『舞姫』で子規に怒られる2 松山で鬱憤を抱える
都落ちの原因は失恋?
松山での漱石と子規
松山を罵る
結婚式は質素の極み
夏目家の家計簿
鏡子の自殺未遂事件
3 イギリスでも日本でも苦労する
イギリス留学
エレベーター初体験
「英文学科」は無かった
独自の文学観
クレイグ先生
留守家族の生活と岳父の失脚
肩にかかる重み
帰国を待っていたもの
『ホトトギス』
排斥運動に遇う
小説家になることの無謀さ
教え子の自殺
4 猫のおかげで流行作家になる
主役の登場
タイトルは他人がつけた
影響は鴎外にまで及ぶ
『猫』の印税
命は四年
5 名作を量産する
『猫』からの解放と飛躍
四十歳の英断
最初の連載『虞美人草』で失敗
鏡子の『虞美人草』観
作品を読むにあたって
6 スキャンダルを解決する
「文学サロン」に集う優等生
心中未遂事件
作品のモデルも「木曜会」から
木曜会異色の人物
豊穣の十年と『朝日新聞』
三十分死んでいた漱石
博士号を辞退
早過ぎた死
7 死後もゴタゴタする
その後の「木曜会」
娘・筆子を巡る文学対決
漱石と精神病
第二章 森鴎外の話
1 天才少年、出世する
臨終の夢
不人気な鴎外
五歳で『論語』を素読
四書五経の重要性
年齢詐称で東大入学
陸軍に入り念願のドイツ留学
2 ドイツで研究と恋愛に盛り上がる
念願のドイツ留学
優雅な留学生活そして帰国
誤算は「脚気の細菌説」
ドイツからの「追っかけ」
舞姫事件の真相
その後のエリーゼは
エリーゼへの思い
結婚そして破局
文学に駆り立てたもの
3 スキャンダルで大変な目に会う
『舞姫』は離婚の引き金か
登志子の容姿が原因か
離婚の本当の理由
離婚が小説のネタに
4 美人妻と母の板ばさみになる
小倉での「忍」の日々
再婚
志げは超美人だった
母・峰子が強引に
憧れの美人との新婚生活
おにばばとおによめ
息子の下半身の心配
5 発禁処分を受ける
性描写で発禁に
母の死と陸軍省退官
鴎外か林太郎か
6 桃太郎をリメイクする
作品の足跡
鴎外は難しいか
最後の作品は「読む桃太郎」
なぜおとぎ話を
鴎外への賛辞
主要参考文献
『漱石と鴎外』 といえば
「民」と「官」 という分け方をされる。
(私自身もこうした思想で 漱石と鴎外 を捉えている)
漱石は権力というものを好まなかった。
「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、
これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。
したがって私は博士の学位をいただきたくないのであります。
…… 右の次第ゆえ学位授与の儀はご辞退いたしたいと思います。
明治四十四(1911)年 二月二十日 」
文部省専門学務局長宛に送った 有名な手紙である。
漱石の書く文章は『虞美人草』『草枕』など
インテリジェンスに溢れた文体ではあったが
一般的に受け入れ難かった。
一方で、一部の上流層には
「哲学」の語られる『虞美人草』は
大変評判の高い作品であったのだ。
漱石は自分を作品を分析し
朝日新聞の連載小説という読者に寄り添い
「芸術」と「通俗」の融合を計った。
自ら、大衆受けのするわかりやすい文体を選び
かつ、高等遊民の人間の姿や心理描写を
細やかに描き
たくさんの人々の共感を得た。
そうした創作姿勢も
「民」の心を自知していたゆえではないかと思う。
一方、森林太郎こと森鴎外は
母峰子の男爵という地位と森家の繁栄という夢を
一身に背負い、最初の妻・登志子
二度目の最愛の美人妻・志げも母の斡旋による結婚。
また、最初の結婚の失敗の後は
林ちゃんの下半身の心配をし、
その処理のための女さえも宛てがうという
現代の女性にとっては恐ろしいほどの
マザコン野郎である。
その母の夢を壊すことができず
母の生きている限りは陸軍省も退官せず
「官」の職にこだわり続けた。
作品に対しても、漱石の読者に寄り添う姿勢ではなく、
自分の信念を貫く姿勢を崩さなかった。
結局、母峰子の死によって
ようやく「官」を脱ぎ捨てることが可能になる。
母の死後、陸軍省を退官し
自分の死の床で
「余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス」
との言葉を遺したのである。
この 『漱石と鴎外』 の筆者、高橋昭男氏は
取り立てて珍しいことを書いているわけではない。
多少、女性週刊誌的な自身の妄想も取り混ぜながら
過去の漱石、鴎外研究で
見えているものをわかりやすく描いている。
そういう意味では、大変読みやすく
漱石、鴎外の概要を知る上で
読んでみるのも一興ではないだろうか?
『舞姫』の太田豊太郎とエリスの恋は純愛ではない。
エリスを裏切る豊太郎は
愛より職を選び、愛より故郷を選ぶ。
(それも自分で選んだというより
相沢という友人のせいだと他人のせいにする)
日本へ戻る手筈を整えた相沢に
感謝しながら彼を憎むという八つ当たり的な思考。
一方、漱石の『こころ』をはじめとする主人公は
友人の奥さんへの恋慕といった
許されざる愛を選択し
食(パン)のために働くことを良しと思わぬ
人間の生き方を変えてまで
その愛を貫こうとする。
『こころ』の先にあるものは
先生の死後、先生の奥さんと「私」が
愛情を交わしたのであろうといわれている。
『こころ』について論文を書いた時。
私は、「私」が先生の自死の後
奥さんと結婚したという説を興味深く感じた。
そして、さらに、先生と奥さんが成し遂げられなかった
「自分の遺伝子」を「私」と奥さんが
生み出したのではないかという仮説を書いた。
『こころ』のお嬢さんへの気持ちを知りながら
陰で策略しお嬢さんを奪い取り
「K」を自殺に追いやった先生という自分。
その自分の穢れを知っているからこそ
自分の遺伝子を遺すことを躊躇ったのではないか。
お嬢さんを愛し、かつ「K」を人間的に
自分より優れていると認めていた自分。
それが「私」が純粋な目で
先生という自分を
真っすぐ信じている人間をみつけたことで
過去の自分(先生)の贖罪を消してくれると
思ったのではないだろうか。
先生の亡き後。
「私」が意識していなかったとしても
先生には無かったその純粋な「私」の遺伝子が
お嬢さんであった奥さんの内に
新しい生命を宿したのではないかと仮定したのである。
そんな とんでも女子大生 の妄想を
面白がってくれた偉大なる
ワタクシのクリツボ先生に感謝している。
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お時間ございます方は、
COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る の
拙文を お読みいただけましたら幸いです。
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