国語の力

岩手大学まるごとデジタルミュージアム

2010年10月21日

 

岩手大学のHPに「まるごとデジタルミュージアム」なるページがあり
そこに「宮澤賢治ノ青春キャンパス」が作られています。

 

宮澤賢治。小菅健吉。保坂嘉内。河本善行。
この4人を中心に12人の学生が
自由な表現を求めて文芸同人誌
「アザリア」を刊行しました。

 

みんなで原稿を持ち寄って
会員の数の分だけ謄写版で印刷したそうです。

 


 

 

第1号が発行されたのは1917年の7月1日。
その後、2・4・5・6号と不定期に発行され、
1918(大正7)年6月26日発行の第6号で終刊となりました。

 

アザリア1号が完成した時、4人は、喜びのあまり
「馬鹿旅行」
と呼ばれる真夜中のハイキングに出かけました。

 

「トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知った」
と語る闊達で行動的な嘉内と賢治は
その後、岩手山に登頂し
「どこまでも一緒に行こう」
と「銀河の誓い」を立てます。

 


 

 

嘉内は「アザリア」の「社会と自分」という文章の中で
「おい、今だ、今だ、皇室をくつがえすの時は、ナイヒリズム」
と書いて退学になります。
トルストイに傾倒し、ロシア革命に影響を受けた学生が多かった時代。
当時、出版、言論に過敏な時期だったのです。
わずか1年ほどの短命な雑誌ではありました。

 

 

しかし、この手作りのちいさな雑誌が
宮沢賢治の文芸の目覚めとなったのです。
「どこまでも一緒に行こう」
その誓いは、『銀河鉄道の夜』に残っています。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ
どこまでもどこまでも一緒に行かう。
僕はもうあのさそりのやうに
ほんたうにみんなの幸のためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

 


 

 

1937(昭和12)年、2月8日。
嘉内は40歳と4か月に満たない生涯を終えました。

 

臨終の日、集まった近親者が号泣する中で、嘉内はこう言いました。
「何を泣いているんだ。人は皆、こうして自然に還ってゆくのだ」
土を愛し、早世論を唱えた嘉内の最後の言葉でした。

 

農村改善のため、さまざまな試みを行った保坂嘉内の夢見た
「花園農村」には、今でいう地域おこしの発想が随所にみられます。

 


 

 

詩人や童話作家としてこの国でその名を知らない人はない
「宮沢賢治」
農学者としても多くの人々のために、
献身的なまでに、その身を投じた賢治に
大きな影響を与えた友でした。

 

世界に対する大なる希願をまづ起こせ
強く正しく生活せよ
苦難を避けず直進せよ――。

 

宮澤賢治「農民芸術概論綱要」の言葉です。
当時の貧しい暗い農村を
「ドリームランドとしての日本岩手」に変えようという
思いが込められた言葉です。

 


 

 

大正15年(1926年)
花巻農学校の教師を辞し農村の生活協同体を作りました。
農民の生活の向上のため、明るく生き生きと
人が生きる上で大切な文化や芸術を根づかせた
村づくり(コミュニティ)を作り上げるために
賢治の希望と願いを「農民芸術概論綱要」にしたのでした。

 

「希願」という表現は
「希望」と「願い」が合わさった言葉です。
暗く貧しい農村に、これから変わる明るい希望を持たせ
その希望を現実にするためには、一人一人が
強く~正しく~生活をすることで
願いを叶えるための大きな力となるのだと言っています。
そして、苦しいこと、困難なことから逃げず進みなさい…と。

 

「ほんとうのさいわい」を願う時
献身なまでの(犠牲的なまでの)
人の思いがそこに宿っているのです。

 

賢治は貧しい農民のために、土壌や肥料の改良をし
飢饉から農村を救おうとしました。
死の直前にあっても、自分の病の重さを隠し
二時間も、稲作や肥料の相談に応じていたのでした。

 

賢治は自分が、急性肺炎に苦しみながら
階下で、宮澤家の3歳の初孫(フジ)が咳をする声を聞き

 

「あゝ大梵天王こよひはしたなくも
こゝろみだれて
あなたに訴へ奉ります
あの子は三つでございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
如何なる前世の非にもあれ
たゞかの病かの痛苦をば
私にうつし賜はらんことを」
と、書き残しています。

 

小さな命を守るため、自分が身代りになり
苦しみから救うことができるならば…という思いは
『雨ニモ負ケズ』にある「デクノボー」という言葉に
象徴されているのでありましょう。

 


 

 

愛する人、大切な人の病床で
私もこんな言葉をかけたことがあります。

 

今から、10年ほど前。
まだまだ、若い母でした。

 

すい臓がんに侵された母は50代に入ったばかり…
病魔の進行も早く、すい臓がん特有の背中の激しい痛みに
大変苦しんでおりました。

 

母の痛みも苦しみも、治すということは、私には出来ないことでした。
母の背中に湿布を貼ったり
手でさすってあげる…
そんなことしか出来ない自分が、とても歯がゆかったのです。

 

痛い~と言う母に
「ごめんね。今日はその痛みが私に…
明日は妹に… 明後日は弟に… そしてその次の日は父に…
そんな風に、順番に痛みを代わって引き受けてあげられたら
少しは楽になるよね」

 

その私の言葉の翌日から、
母は痛い~と言う言葉を口にしませんでした。

 

死の間際、母はこう言いました。
「これが、お父さんだったら、痛みに耐えられなかったと思うの。
私で良かったって、そう思うの」

 


 

 

賢治は
修羅(醜い争いや果てしのない闘い
また激しい感情のあらわれなどのたとえ)
としての自身の心に正面から向き合ったのです。

 

質屋の私利私欲と戦い、社会の中の権威や名誉欲と戦い
信仰上で父と争い、戦い流されてゆく自身を「修羅」と呼んだのでした。

 

人が陥る「慢」というものに浸った自ら~
争い
怒り
流転
明滅す
こころの現象を見つめ続けたのでした。

 

 

賢治が「まことの力」に心を身を投じた時
「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから」
という言葉が、湧き出てきたのでした。

 

 

みんなの中の私
私の中のみんな
と、そう思えた時
賢治は宇宙に~銀河に~包まれ
それらを心象に包み入れている自分を見つけ出したのです。

 

犠牲~献身~
そうした言葉で括(くく)ることのできない想いが
「ほんとの幸い」に気づかせてくれるのではないでしょうか?

 

 

 

(PHOTO:岩手大学まるごとミュージアムより)

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