国語の力

偶然は偶然ではないのかもしれない

2010年10月19日

某所で、以下のコメントを残した。

私のようにプライベートしか無い人種は
とても狭い世界にいるようで、時々寂しい。
でも、狭いところから見る景色も時には必要なこともあるのかも…

昨年は、自分を穴に落っことしてしまったので
今年は、後ろを見ながらも前向きに進みたいなっと思っております。

それに対して
井の中の蛙大海を知らず、されど空の高きを知る
との言葉を与えてくださった。

穴の中から見る空の蒼さ、高さに気づくのは、穴の中にいるからに他ならない~と。

それも大事にしたいし、私のような世間知らずには
そうした見方しか許されていないのかもしれない~なんて思ったりもする。
きっと、大海に船出すると、泳げない私は波にもまれ海水を肺の中まで吸い込んで
溺れ死んでしまうかもしれないな~なんて思ったりもする。
それでも、穴から這い上がろうと、穴の壁と壁に精一杯に両手を広げて
壁と壁を押さえ込むように思いっきりの力で、穴の上の光を目指して
上に上に這い上がろうとしてもがいているのかもしれない。

壁は濡れて、手は滑り、足掛かりならぬ手掛かりさえもなくて
絶望することもあるかもしれないけれど…
たとえ、穴を抜け出せても
その大海は荒々しくて、優しく自分を受け入れてはくれないのかもしれないけれど…
どこにいても、見えるべきもの、大切なものは変わらないのかもしれない。
それでも、やっぱり、穴を抜け出して、未知のものを見たいと思う。
なにかを探したいと思う。

そのために、努力を惜しんではいけないね
諦めてはいけないね

そんな彼が、企業のオーケストラ研修のことを知り
オーケストラを聴きに行かれたとのこと。
こういうすぐに行動できる東大大学院卒の新入社員くんを羨ましいと思う。
そういう力を立派だと思う。
こういうお子さん(というと、立派な青年に叱られてしまうが)に育て上げられた
親御さんを素晴らしいと思う。

さて。
我が子に育てられている私。
試験勉強中、「使えるものはなんでも使え!」と、思っていたかは定かではないが
「お風呂に入っている間に、ノートにこの詩を写しておいて~」
と、ママに課題を振る。
(宿題ではないです。彼女の名誉のため。自主的に詩を読み込むためノートに書いて~と)

それが、谷川俊太郎氏の「交響楽」という詩だった。

「ヴァイオリンを弾いてる人は
おでこに汗をかいているというのに
シンバルを鳴らす人は
もうずいぶん長い間を待っているようだ」

自分を「トライアングル」と言う彼を思い出しながら「くすり」と笑う。

音楽堂の外にある~ぶなの樹や西風、子ども、仔犬、若い男女
「オーケストラはそれらすべてを歌っている」のだと。
「私もまた目に見えぬシンフォニィの
選ばれた奏者のひとりなのだと」

時々ね。
こういうことがあるのだ。
ひどく、ものを辛く感じている時に
心に何かが留まっている時に
何気なく我が娘のかける一言や、我が娘が見せてくれる文章に
なぜか心救われることがままあるのだ。

私はなんだろう?と考える。
オーケストラで楽器を奏でているのは子どもたちなのだろう。
オーディエンスとして客席に座っているのだろうか?
それとも音楽堂の外にいて、そっと風に乗って流れてくるそのかすかな演奏を
聴き漏らすまいと、聴こえていないフリをして、耳をそばだてているのであろうか?

子どもたちの奏でる音を
聴き続けたいと思う私も、シンフォニィのあるひとつの奏者と
認めてもらえるであろうか。

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