国語の力

安部公房 『鞄』

2010年10月11日

高校生に、
安部公房の『鞄』の入試問題を説明してくれ~と言われた。

国語の試験問題というのは
この一語は何を指しますか?とか
この言葉を発した意味は?とか
設問の前後とか、あっちとか、こっちとか、そっちとか
そこかしこに、お答えが出ていたりするわけで…

社会なんかも、○○時代といえば、
これでしょ~的な解答が用意されているような問題も多いと、
私は感じているのだが…
先生方、いかがでしょう?

ただ、最後の最後に、『鞄』が何を象徴しているのか?
…という問題があった。

『鞄』は、半年前の求人広告に
応募してきた男が抱えてきた鞄である。
経営者は、何を今更~と思うのだが、
逆に気になるので
男にいろいろ聞いてみるわけである。

男は、この鞄と自分の身体のバランスがいいので
鞄を持って動ける(通える)仕事先がここだった…と言う。

では、その鞄が軽くなったり、
貴方の身体が体格が変わったりしたら
ここでなくとも良かったのですか?
なんて、経営者は意地悪したくなる。

男は、結局、この会社に勤めることになった。
「さすがに、その鞄は置いて、出勤してくださいよ」
ということになり
経営者は、下宿先を斡旋する。

なんて親切な会社だ。古き良き日本の社会は…

その下宿先を下見に行くため、
男は、鞄を置いて出て行く。

経営者は、その鞄に興味があり、
その鞄を持ち上げると、
やたらと重かったのに、
なんだか、自分にしっくりきて歩き始める。

上り坂は鞄が拒否し
鞄の赴くままに経営者の男は歩みを始める。

「選ぶ道がなければ、迷うこともない。 私は嫌になるほど自由だった。」

そんな話で、高校生は、その鞄が一体なんなのさ~と聞く。

ん~。
つまり、鞄を持った人間は
なぜだか、その鞄が自分のバランスになって
鞄を持っていけないところには行けないのよね。

人間は、自分の背負うものがあって、
それが責任とか、世間とか、常識とか、家とか、家族とか、
まあ、自分ではどうしようもない
しがらみみたいなものを負ってるってことが
「鞄」が示しているのでは無いのかな~。

で…なんで、それが自由なの?

自由を手に入れるためには、
結局は、なんらかの制約を感じていないと
自由そのものを自由だと理解できないのではない?
そこで、その範囲や拘束のある中で手に入れられるものを、
自由と呼べるのではないかってことではないのかな?

闇雲に、ただ、やりたいことをやって、
手に入れたいものを手に入れたとしても、
そこに、責任を持つ自分がいなかったら、
何が自由なのかもわからなくなってしまうのではないかしら。

なんの指標もなくて、砂地を歩いていたら、不安にもなるし
ここでいいのかな~なんて、
迷子になってしまったら、迷子になりっぱなしになったり…

私は嫌になるほど自由だった
幸福もね。
当たり前になると、幸福を感じられなくなる。

私は、よく、昔から、
可哀想な子~と言われていたけれど
全然、自分を可哀想に感じたことはない。

些細なことで感動して、
小さなことに喜びを見いだす私に
「貧乏性だね…」と、私の頭を撫でながら
優しく笑ってくれる人がいた。

そういう人が、そこに存在してくれたということだけで
私は、しあわせだな~と思う。

不思議だね。
見えないはずのものが見えて、
気付かぬことに気付いてしまう.

やっぱり私は魔女だと思う。

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