国語の力

村上春樹 あかいほんをもって森へいこう

2010年8月13日

 

ノルウェイの森に迷い込んだ

「ねえワタナベ君、私のこと好き?」

「もちろん」

「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」

「みっつ聞くよ」

「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。
ひとつはね、あなたがこうして会いにきてくれたことに対して私は
すごく感謝してるんだということをわかってほしいの。
とても嬉しいし、とてもーー救われるのよ。
もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」

「もうひとつは?」

「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことを
ずっと覚えていてくれる?」

けれども記憶は確実に遠ざかっていく。

結局のところーーと僕は思うーー文章という不完全な容器に盛ることができるのは
不完全な記憶や想いでしかないのだ。

何故、彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。

もちろん直子は知っていたのだ。

僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうことを。

だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。

「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

 


 

死は 必ずや人に訪れる 平等な運命 であり 儀式 である。

 

私の弟は死を選んだ。

彼は逝ってしまった。

この言葉を遺して…

 

たくさんの愛情を ぼくは 決して 忘れません

 


 

『ノルウェイの森』の 直子は

「私を忘れないで」

という言葉を最初に遺し、

「いつまでも 覚えていてね」

という言葉を繰り返す。

 

「忘れないで」 「覚えていてね」

〜 その言葉よりもなお 「決して忘れません」 に 感じる決意。

 

直子の恋人であったキズキが、

自動車の中で排気パイプからガスを吸い込み

死んだその日

「今日は負けたくなかったんだよ」

という言葉を ワタナベに漏らす。

その日の

「今日」

が キズキの決意。

 

自ら死に逝くものは、

何かを遺すことを 潔しとしないのかもしれない。

自分の存在そのものを 消え去りたいと 願うほど の思いを抱えて

その上、他人に

なにを 求めるというのだろうか?

直子は 生きようとしていたのでは ないだろうか?

 

キズキと 心も体も 同質で 同一な
生き方をしてきた 直子にとって
突然に 片翼を 奪われた
飛べない 自分に戸惑い
その片翼を ワタナベに
求めようとしたのかもしれない。

 


3歳の頃から キズキと過ごす時間が 当たり前で、

体まで 共有する感覚をもつ 直子は

キズキとのセックスを試みても 濡れることができず、

処女のままであった。

 

キズキと直子は きょうだい以上に親密で、

体も心も 自分のものでありながら 相手のものでもあるという、

「個」ではなく「対」としてのみの

存在観を 互いに共有していた。


直子の体を欲するキズキは、

すなわち 自分の体を 欲することになり、

直子にとっても それは同様で、

二人にとっての 緊縛された 絆の中では、

互いを 求めること

〜それは つながることではなく、

マスターベーション である。

 

それを 感覚的に知っている 直子は、

体が拒否し、

キズキのマスターベーションによって

自分を 確認することになる。

 

どうしようもな くきつく 絡み付いた絆は

そうして キズキを失わさせた。

 

遺された直子はキズキの語り部になることができず、
その役割りをワタナベに託そうとしたのではないのだろうか?

 

キズキと違い「個」として存在するワタナベに、
直子の体は開いていくのだ。


私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れていたの。
そうしてずっとあなたに抱かれていたいと思ってたの。抱かれて裸にされて、
体を触られて、入れてほしいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。
どうして?どうしてそんなことが起こるの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ。

二十歳の誕生日。
たった一度。
ワタナベの男性としてのペニスを受け入れた。
それはキズキとの緊縛された絆とは異なり、
「個」と「個」としての関係が
ワタナベと直子に生まれはじめていたからに相違ない。
が、直子はキズキとの「対」の関係を呼び起こす。
直子の心はキズキの心であり、「対」であり続ける直子は
「個」の心をもつワタナベを畏れ、そして混乱が始まる。

 


 

 

冒頭の二人の会話に戻る。

 

「もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?
どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩の力を抜きなよ。
肩に力が入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。
肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ」
「どうしてそんなこと言うの?」
「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。
そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ね、いい?
もし今私が肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。
私は昔からこういう風にしか生きてこなかったし、
今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。
一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。
私はバラバラになってーーどこかに吹き飛ばされてしまうのよ。
どうしてそれがわからないの?」
「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。
暗くて、冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?
どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」

 

タナベの「個」としての直子への愛は、
直子にとって重くのしかかってきたのであろう。
キズキとの言葉さえ必要としないほどの近しい同一の魂は、
キズキの死によって直子自身の魂と同化した。

 

「対」を超え、同化した魂はすでに直子の「個」を
どこからも消し去ったのである。

 

「たぶん、僕は君のことをまだ本当には理解していないんだと思う」
「でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、
そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う

とワタナベは言う。

 

直子にとって理解ではなく
同一化する魂という関係性の中でしか生きてはいけなかった。

 

ワタナベは理解に努める。
だからこそ、直子の魂も二十歳の誕生日に生まれ変わるために
たった一日、
これまでの生きてきた生き方の肩の力がフッと抜け、
今までの自分にはなかった「濡れる」という
自分だけの魂が開放されたのであろう。

 

そして、その瞬間に気づいたのだ。
これが、すでに失われたキズキを再び失うことであり、
失われた直子の姉を再び失うことであったのだと。
どこまでもキズキの魂は直子と同化し、
六歳年上の姉は直子をみつめつづける。
父親の弟もまた自死しており、
「やはり血筋なのかな」という父親の言葉を想起する。
キズキの存在は血筋を超えた魂の筋を感じさせる。
その筋が断ち切られることは、
直子自身の魂を断ち切ることになることを
「個」であるワタナベにつきつけられたのであろう。

 

ワタナベにキズキと直子の語り部になってもらうためには
断ち切られた魂を抱えながら、
なおも生き続ける時間が必要であった。
そして、繰り返しワタナベに伝えるのである。

 

「忘れないでね」「覚えていてね」と…

 

 

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