国語の力

読ミ・書キ は肉体労働

2009年8月24日

今もなお 心震わす 夏嵐

胞衣(えな)を弄(まさぐ)る 愛(かな)しき指よ

私の作る歌なんて
大した技法も使っていないし
心にあるものを
五七五七七に、のせているだけ…

胞衣(えな)なんて言葉…知ってました?

愛しを「かなし」と読むこと…知ってました?

愛しい気持ちは、いとおしく愛する意と
愛することは、かなしくせつないこと…という意と
その綯い交ぜの心の葛藤が
「愛し」を「かなし」と読ませたわけです。

言葉が作られる時には、生まれる時には
なにかしらの意味が、心が備わっているわけです。

読むことによって外部、他者の世界を知っているか
書くことによって自分自身を含む対象を客体化する訓練をしているか
話すことによって他者に向けて自己表現を鍛えているか
聞くことによって自分とは異なる他者の存在を知ることをしているか
見ることによって、細部が全体を組み立てていることを知ろうとしているか

くり返し唱え続け今お前は何処に存在しているのかということを喚起しておくしかない

今…
人は、読むことを知らない人が多くなっています。
結局は、自分だけの中でコトを済まし
知ろうとする姿勢を知りません。

書くということは、一度、自分から言葉を別の場所に預け
それを、客観視することにつながります。

そして、話すことで、自らの組み立て方を整理し
どう、他者に理解してもらえるか…を考えることになります。

聞くことで、他者の存在や考え方を知る気づきになります。

そして、今…
しっかりと見ること…ができる人間は
世界を構築する力をもっていると言えるのではないでしょうか。

その力を持つためには
肉体労働にも似た
「読ミ 書キ」を繰り返す忍耐が必要になるのです。

歌を作るには
過去の歌を読まねば、その基本的文体や技法をしることができません。

俵万智さんの『サラダ記念日』だって
古典短歌を真似して、知った上で、出来上がったものです。

そうした「読ミ 書キ」の肉体労働の上で
心から湧き出るものが歌になるのです。

私の歌から、何を読み取りますか?

私自身は、血なまぐさいほどの
激しい恋情を、感じてもらいたいと思うのですが…

生きていることを
当たり前と思わないで…

言葉を使うことを
当たり前と思わないで…

今の社会は悪を
自分に関係ないことだと
自分の身にふりかからないことは見て見ぬふりをする。
それが、悪意を受け入れ
その自分には関係ないという態度が
他人を苦しめる。

人間らしさを失い
それを自覚しないまま、悪を平気で許す人間になってしまう。
無自覚の悪意・・・それほど、怖いものは無いように思うのです。

私も、少し、肉体労働をやらねばなりませんね。
今、自分が何処に存在しているのかということを
喚起
するためにも…ね。

 

 

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