国語の力

『悼む人』

2009年8月15日

 

いまさらながら~です。
某社長に、ご本をお借りして読んだのでした。実は、出たばかりの頃、本屋さんで立ち読みしました。
最初の数ページを読んで
『悼む人』のコンセプトが、わかった気になっていたのですが…

 

今回、『悼む人』を読んで…

女の性(さが)だわ…
と、思ったのでした。

 

天童氏は、生と死について書かれているのです。
まさしく、それがテーマです。

文芸春秋の『悼む人』特設サイト

 

生きてきた証とは~
そして、死者が求めているものとは~
そうした死生観が描かれている作品です。

 

人の生き死にということは
(それを人生と呼んでもいいと思うのですが)
死者にとって
「忘れないで」
「刻みつけておいて」
という言葉に
集約される~と思うのです。

 


 

 

そして、生きている者は、
後から、生まれた者に伝える~使命があると…
善いものを引き出すためのエデュケートを
忘れてはならないのだと…
そう思うのです。

 

それを、殉教者(巡響者 ←あえてこんな字で私は表現したい)として
他人の死を「悼む」行為を行う尊さと辛さを
天童氏は、描きたかったのだろうな…と思うのです。

 


 

 

聖者になる前のイエス・キリストのような歩みをする男の物語だとか、
アッシジの聖フランチェスコのような、
何をしているのかよくわからないけれども
純粋さで人々を引きつけていく人物の物語なんだ、
というようなことも話していたんです。
(天童氏談)

 


 

 

死生観というものは、人それぞれなので
なんとも言えませんが
私の持っている死生観というか、
実感(本当に真実の体験だったので)は
弟の遺した
「たくさんの愛情を、僕は決して忘れません」
に、行き着くわけです。

 

そして、私にあるのは
「あなたを、ずっとずっと忘れない」
なのです。

 


人が生きた証~というのは
愛するものの喪失を
自分の中で、忘れること無しに
どのようにして、折り合いをつけていくか…
遺された者が、
どのようにして、生きていくか…
ということではないのかな…と思うのです。

 

この点は、坂築静人という男を使って
天童氏の、これまでの作品にある
生き死にに対しての真剣な取り組みが見えてまいります。

 

私が、殉教者という言葉を使ったのは
『悼む』行為に対してのストイックな場所に
自分を追い込む苦しさ~が描かれていると思ったから…
そして、それを「巡響者」としたのは
人は巡りめぐって、響きあう人を求めるから…

 


 

一番、難しいことって分かりますか?


 

 

始めた頃の最初の志を持ち続けること…
欠かさず、繰り返すこと…
男は、最初は、女に餌を与えて、
あとは、それで放ってしまう。

 

女は(というと、最近の女性には違う人もいるかも)
私は、繰り返す力がある。

 

同じことを、日常を淡々と繰り返し
愛情もまた、日々、薄れることを恐れて
気分で、やったり~やらなかったり~ということができない。

 

同じ事をして、ある日は怒る~ある日は褒める~
一貫性のない処遇は、人間を恐れさせる。
そして、人を隷属化させる。

 


 

 

私は、変わらない。
ひたすらに、繰り返します。
坂築静人は
繰り返す力をもった男として描かれていると思うのです。
(そういう男は強い~ですね~)

 

一方、倖世の夫、朔也は、歪んだ愛情を妻に向ける~
そこにも、愛情はあったのだと
静人は言うのですが…
この『悼む人』は、坂築静人が主人公ではあるのですが
圧倒的に、母親の巡子さんと、倖世という
二人の女性の生と性~に、喰われております。
演劇の世界で言う「主役を喰った~脇役」という感じ。

 

結局ね。
文学は、女に辿り着く~と思ったりします。
だって、男も女も、女から生まれる。
そして、
男は女を愛し
女はより多く男を愛する

 

 

今はね。
女性が男性化しなければ、
生きていけない社会になってしまったから
より多く愛されたい女が増えて
世の中が狂いはじめてしまったのかもしれません。

 

天童氏は、基本的にアダルトチルドレン物語を
書く人だ~と、簡単にジャンル分けする人々がおりますが
私の持論は
人は誰でも、アダルトチルドレン
でも、それを言い訳にして甘えるな!
って、ことです。

 

私は弱いので
甘えたくなることもあります。
甘えさせてくれる友達もいます。
やっぱり女の方が、度量が寛い
でもね。
だから、他人(家族を含めて)を苦しめても許される~と
甘えるのは、間違っていると思うのです。

 


 

 

天童荒太氏の小説は
『永遠の仔』にしても『家族狩り』にしても
辛い家族の問題がテーマになっています。

 

この『悼む人』の中では
母親の巡子のガンと、妹の美汐の妊娠という
死を前にした者と、生を体内に宿した者が対比され
生命の誕生と終末において
細胞レベルのものが、身体に涌出する状態は
同じだということも、描かれています。

 

再生…
循環…巡感(←私の造語)
それは、私自身も、母の闘病を経験して
感じたことと同じです。

 

DVから逃げた倖世が朔也から受けた歪んだ愛情…

世の中の基準がわからない

苦しむ人と変わってあげたい

死者から譲られた時間が、今の自分の命だという自責

人に、何かを残すために自分が存在するということ

過去に、私が書き綴った言葉が
ここにあることに驚いてしまいました。

 


 

 

看取ることを許された人は、選ばれた人…

 

同じように、死を悼む人も、また
なにかに選ばれた人なのだと思うのです。

 

誰もが、簡単に出来そうで出来ない

 

心があっても、続けることができない大抵の人々の中で
それが、出来る人は、やはり希有な存在なのでしょう。

 

そんな静人が、感情を殺して(失って)
「悼む」ことに同化し、
(それは馴れ~に、つながっていくという自身の畏れもあったのではないでしょうか)
いつしか、殉教者に~聖者に~、近づき
ヒトとしての湧き起こる情熱を失い始めた時に
倖世によって、自分の人間らしい部分を取り戻したのです。

 

芥川龍之介の『杜子春』も、仙人になりかけた時
母親への愛情で、仙人になることを断念します。

 

すべての感情を殺し、
自ら、人間界から離れた場所で生きようとする時
そこで、愛が試されるのかもしれません。

 

倖世の中にある朔也という死者を抱え続けた愛情に
静人は、倖世の魂を感じ、それを超える愛情を
素直に認めたのでしょう。
潔く愛情に身を任せた静人のため
倖世は、静人の生き方~悼むことが静人の生きる力になっていたので
『悼む人』を守るために、静人から離れる決意をします。

 

女はね。
やっぱり、より多く男を愛するのです。

 

『悼む人』は、死者の記憶をとどめて
生きた証を残す努めを描いているのだけれど
どうしても、そこに、女の性(さが)が必要で
それが、男を強くさせる力となるのでしょう。
そうして、女は潔く、我が身や心を削っても
男にとって一番いい選択を
選んでしまう性(さが)を持っているのです。

 

 

(PHOTO:Ondrej Supitar)

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