国語の力

孤独のチカラ

2007年10月4日

齋藤孝氏を読み漁っている。

「教育力」から始まり
「恋愛力」等の「力」系~
「声に出して読みたい~」系~
なかなかに齋藤氏のテレビで見る饒舌さが
文章にも現れていて楽しい。
「教育力」は、教師はもちろん親にもぜひ読んでもらいたいと思う。
読んで損はないと思う。

「恋愛力」は、これを読むと村上春樹が読みたくなる。
高校生の国語の教科書に村上春樹が載っていて
何冊か(もちろん「ノルウェイの森」も)
村上春樹本を購入して、置いていたのだが
なかなか手に取らない。

で、「恋愛力」を読めば
少しは興味を持ってくれるかもしれない~なんて下心。
そうして「恋愛力」を読む限り
齋藤氏は確かにモテない男であると感じる。

男は、会話の中で女性を楽しませなければ
モテる男の価値はないそうだ。
しかも、村上春樹様のような
高度な言葉の離れ業を使える男性でなければ…。

で。
「孤独のチカラ」
孤独を愛せよ~。単独者たれ!
というコンセプトが頼もしい。
そして、この感覚が
私と大変近しいものであったので共感した。
「孤独」というと隔離された哀愁を感じたりするが
独りでないとできないことは多い。
勉強も、研究も、学問も
本来は自分自身の力を発揮するものだ。
友達と一緒に試験勉強して
点数が上がったとは、まず聞いた試しがない。
泊まり込んで友達の家で勉強したって
本当の勉強になる由も無い。

但し、個人個人で
それぞれに自分をもった人間が
同じ場所に存在し
そこで生まれる緊張感の中で
切磋琢磨することは良い結果になると齋藤氏は言う。

そういえば、中学3年の時
野球ひとすじで中学時代を終えようとした友達に
入試前の1ヶ月、彼のわからないことを、毎朝の始業前に聞かれ、
それを毎日、説明して教えてあげたという経験がある。
彼の「試験に受かるために勉強せねば」
という「孤」の思いが
私の「孤」としての持っていた力と相まって
相乗効果を齎した。
(他人に教えるということは自分自身の確認作業ともなる)

また、自分の過去を掘り起こして
図書館という空間を思い出すと
そこに集まる人間にとって
勉強する場所を求めて集まる「孤」の個人の集合体で
そこには静かな緊張と張りつめた空気がある。
その「孤」を持つ人間の集まりには
寄り合い的な色はなく、
必要な時に手を差し伸べる優しさはあれど
平素はそっけないほど自分を大切にする。

ちょうど、漱石先生に会いに出かけた日。
その頃、独り~という時間を切望していた。
その独りは、他を排除して
自分たちのテリトリーを守ろうとする集団からの
排斥された孤独ではなく
むしろ「Independence」ともとれる
自分で選びとった「孤」独立
とでも呼べる「孤」の時間と場所を欲していた私であった。

真夜中に、東京タワーの灯りが遠くに見えて
ビルの窓に人が存在する光があった。
そこに存在する人間は
孤独を感じているのだろうか?

それとも、孤独を感じる暇もなく
仕事に追われているのだろうか?

そんなことを思いながら
都会の静まりの中に時折、車の走る音を聞いた。

この時間は、私が選び取った
私だけの「孤」独立の時間と空間だった。

翌早朝。
ルート246を車で走った。
夜通しずっと遊び続けた人間たちが
六本木の街をけたたましい笑いとともに過ぎて行く。
彼らは、自ら選びとった「孤」独立の
我が身の孤高を思うことはないのだろう。
彼らは、集団で笑いさんざめきながら
むしろ阻害される孤独を恐れて
群れているのかもしれない。

すっかり齋藤氏の「孤独のチカラ」から離れてしまったが、
時折、自分が心を揺らす時に
偶然にもその揺らいだ心と
マッチングする本との出会いを経験する。
私の感じていた「孤独」のあり方と
齋藤氏の「孤独のチカラ」が
共鳴し合ったのであろうか?

そういう時に
偶然の必然
を感じる。

(PHOTO:Caleb Ekeroth)

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