研究授業その9 中学1年国語 2006年10月 中学1年 国語
ヘルマン・ヘッセ 「少年の日の思い出」
少年時代に 経験した
友達への 嫉妬と自責。
その前半部分を 読解していく。
まず、先生は 白夜の特性を 話した。
それが この物語を進める上での 陰影を 形作っている。
(そこまで 生徒の理解が 得られているかは 疑問だが)
先生が 読んだ後、生徒が 一斉に 声を 合わせて読む。
(群読と 呼ぶらしい)
そして 文章の一部分を 取り出し、
そこから 分かることを 生徒に 考えさせ 発表させる。
それを 繰り返し、
先生のほぼ予想と 一致する答えを 導き出していた。
ヘッセは、
今の子どもには理解が難しいのではないかと思った。
日本で言えば 明治時代の人。
ドイツ文学の古典 といってもいいような作品。
現代の子どもの生活とは、かけ離れた世界。
検討会で 先生に
「白夜について 説明したように、
生活様式など 具体的なお話があると
より子ども達に 理解が深まるのではないでしょうか?」
と尋ねた。
先生は
「最低限必要なことは 教えるけれど、
国語というのは 文章から 読み取る力をもってもらうための 教科なので、
前後の文章から なんとなく それが理解出来ればよいと 思って います。」
と、答えられた。
私は普段、小説を読む時、
一文一文を 吟味して 読んだりしていない。
その物語を通じて 作者が 何を 伝えたかったのか
あるいは 受け手が、
自分なりに 思うこと 感じることが
ありさえすれば、
それはそれで 作品としての役割を 果たしていると思う。
時間を経て、読み返し、
そこで 新たな発見があったり
自分の成長とともに、
以前と違う視点で 作品を感じたりすることで
十分だと思っている。
大学を 卒業してから、
一つの作品を 一文一文読み砕いて 丁寧に読む〜 ということとは
すっかり ご無沙汰していた。
学生時代にしか、
こういう読み方をしないだろうと
改めて 国語の授業という 感覚を 取り戻した。
実は こうした読解が 苦手で 小説や 文章から、
逃げてしまう子どももいる。
だから、趣味の読書は、読んだまま、感じたままで
時には 素直に 好き嫌いで
自分なりの 評価をしても 構わない。
だから、
子どもには 食わず嫌いにならず、
本を読んでもらいたい と思う。
「国語」という 教科学習において、
こうした 一文一文のもつ 意味や表現。
作者は どの文章にも 手を抜いて 言葉を綴ってはないことを
知ることの大切さ「も」必要だ と思う。
その生徒のスキルと 教師の思い〜 熱意。
その差を どう埋めて 行くべきか。
学校で 朝読書を 推奨してはいるけれど
本当は 家庭で、家族で、
本を読む習慣を通じて 読書の喜びを知り
その上で「国語」が 成り 立っているのかもしれないと感じた。
我が家の 下のお嬢さんは、
ただ今、
「赤毛のアン」シリーズに ハマっている。
ようやく 読書の楽しみを知ったかな?
と思える 奥手の長女は
「シャーロックホームズ」に 今頃 ハマっている。
(ママは 小学校3,4年生で ホームズ、ルパンは 読破したぞ!)
それでも 本を読む喜びを 知った者は、
人生が 豊かになると 思っている。
奥手の長女も、
これから 自分の好きなジャンルや 作家が出てくれば
もっともっと 世界が広がるだろう。
ただ、残念なことに
教科書には 物語がひとつしか載っていない。
今は 自分の言葉で
「聞く 話す 考える 書く」ことに 力を入れて
小学校から中学校の 教科書には
たったひとつの物語しか 教材として 並んでいない。
「聞く 話す」ことが 苦手な子どもこそ
「読む」ことも 大切なのだと思う。
本は 無数にある。
でも、中には 教科書しか 読まない 子どもも いるのだろう。
やっぱり、
それは 家庭環境に 戻って行くのだろうか?
中学校でも 読み聞かせを してやりたくなった。
(2006年10月)
お時間ございます方は、こちらも ご高覧ください。
↓
研究授業その9 中学1年国語 2006年10月 を含む 19回 + まとめ を一度にご覧いただけます。
少年の日の思い出の感想で ネット上にあった
面白いと思った 感想をご紹介します。
クジャクヤママユを
つぶしてしまったと気づいたとき、
” 盗みをしたという気持ちより、
自分がつぶしてしまった、美しい、
珍しいちょうを見ているほうが、
僕の心を苦しめた。 ”
とあります。
この時の僕の感情を最も支配していたのは
盗みを働いたことによる罪悪感ではなく、
クジャクヤママユという
「美しいもの」が壊れてしまい、
もう二度と修復して、
出会った時の高揚感が味わえない
と悟った時の悔恨だったのです。
幼いながらも収集家としての
僕の芸術的感性のもたらした悲劇だったのです。
美しいものを信奉する自分が
美しいものを破壊してしまったら
自分は芸術への叛逆者なんだ。
こんな汚らしい自分には
目の前に美しいものが現れることは
もう二度とないだろう。
言葉足らずかもしれませんが
少年の芸術家としてのモチベーションは
パリンと割れてしまったのでしょう。
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