教育

教育の連鎖

2008年3月1日

教育の連鎖 という言葉が浮かんだ・・・

 

広島で被爆された方の 生のお話を聞いて、

伝えたいことがいっぱいあって

どこから書くべきか迷っている。

80歳の その方のお話を、

あと、どれだけ聞けるのだろう?

確実に 被爆者の数は減り、

原爆の脅威を語ることのできる人間は いなくなる。

 

残された時間は 短い。

教育の連鎖

日本は 戦争未体験者の国になる。

 

被爆された方は、こちらへ戻り、

特攻へ行きそびれ 死に損ねた人間として、

口を 閉ざした。

 

中学校の理科教諭を勤め、退職して十数年。

ようやく

ここ3年ほど前から 語り部となった。

「よく 生きて帰ったね」

~ 死んだ仲間の 遺族の言葉を

「うちの子は死んで、あんたは生き残った」

と 捉えることしかできなかったと言う。

骨もない骨壺を胸にし 泣き崩れる遺族の姿に

死の真実は どうだったかを 知りたかったのだろうと、

それを伝えなければならないと ようやく気づいたのだそうだ。

『おかあさんの木』 という絵本を思い出した。


その方の 語り部の活動は、

中学教師時代の 教え子が、

PCで 資料作りや パワーポイントなどを お手伝いしている。

その教え子も、

県立高校の教諭を勤め、

退職して かつての恩師の手伝いを

ライフワークにしているのだと言う。

そして、この元高校教諭の父親が、

元中学教諭の この被爆された方の 小学校時代の先生だった。


つまり、

戦前の教育勅語の教育を

小学校で施した先生の教え子が

「家族を守る! 国を守る!」

と 教育され、

16歳の時に 志願兵となり、

広島へ赴き、海軍の特攻隊員になった。

 


1945年 8月6日

広島に 原爆が落とされ、

その後始末のために 爆心地に入り 被爆した。

そして、戦後、地元へ帰り、

高校、大学へ進み、

中学教師になる。

そこで、かつて、

自分に 戦前教育を教えた教師の子どもと出会い

戦後の民主主義教育を その子に施す。

そして、その子は 高校の社会科教師となり、

日本の歴史を 自分の生徒に教えることとなる。


今。

現代の教育は間違っている! という人間がいる。

そうだろうか?

自分の命を国のために捧げろ! と。

そうした教育を受け、

どれだけの人間が 生命を 無駄にしたのだろうか?

 

戦争は 間違っている。

争うことからは 何も生まれない!

 

そう訴える 人間の声を、

権力という名の下で 消し去り、

国のために戦い、

命を捧げることを是とした教育。

それがために、

たくさんの命が 奪われ、

たくさんの人間が 傷ついた。

そこから、

現在の教育が始まったのだ。


自分で、

真に正しいと思うことを

しっかりと伝え、

また、他人の伝えたい思いを

しっかりと聞く。

その上で、是か否か、

あるいは妥協できるところ

~自分の答えをみつける

たくさんの可能性から

ベストを見抜く力

そういうものを 身につけるための

教育なのではないだろうか?


世の中は、欺瞞に充ちている

だからこそ、本物を選ぶ目。

似非思想に流されない

確固たる自分を 持ちつづける 強さが求められる。

管理教育、

偏差値教育が悪いと言われ、

ゆとり教育が生まれた。

ゆとり教育が悪いと言われ、

道徳教育に力を入れ、

上の人間に敬う(従う)人間を作れ!

と言う。

天皇を 敬い、

国家は 戦争に 進んで行った。

原爆は 戦争を終わらせるために 必要だった。


世論や

そう思う若者が増えて

子を持つ母親として 恐怖を感じます

私はそう話した。


日本はね。

原爆を落とさずとも 負けていた。

アメリカは、

言い訳に、

原爆を落としたことで 死者が減ったと言うが、

アメリカの軍人の死者が 減っただけ。

戦後、

ソ連に 日本を占領されたくないアメリカの思惑があり、

アメリカは 原爆を持っていると、

その力を みせつけるための 8月6日だったのだ。


真実は、なんだろう?


自分の求める思いは なんだろう。

そのために、

学びが必要なのである。

自分の与えられた教育は、

本当に 真実なのだろうか?

 

ラジオから流れる雑音と機械的な声ひとつで、

教育が 根本からひっくり返った瞬間を、

現実として経験した者にしか わからない


怒りと哀しみと虚脱

与えられた真実が 偽物であるかもしれないと、

常に、真実を見抜く目を 培わねばならないのだ。

そのために、

教育があるのだと思う。


だから、ゆとりであろうと、

心のノートであろうと、

お題目や形骸化されたものなど

どうでもいい

と私は思う。


目の前の子どもの姿を 見て、

この子どもに 何を与えれば、

似非を 見抜き、

真実をみつけるための智恵が 身につくかを

導く役割が 教師の仕事であり、

それが

教育なのではないだろうか


みんながそうするから、自分もそうする。

みんなと一緒ならば、それで安心。

そんな思考が 一国玉砕を生み出した。

私は思想家でもないし、

右とか左もわからない。

教育の連鎖 小幡万里子

ただの母親だ。

だから憂える。

 

親の中にもまた、

みんなと一緒に 無難に合わせて生き、

子どもよりも 自分の我欲が満たされればいい~

と思う親が 多数いる。

そして、

子どももまた、

自己を持つ子どもを阻害し迫害し

自分たちと同一化させようとする。

真剣に生きようとする、

真剣に学ぼうとする子どもを

陥れる。


教育の連鎖

たくさんの犠牲の上で、

今の幸福があり、

今の教育がある。

方法論は ただのやり方にしか過ぎない。

子どもを正しく、

より良い生き方を 身につけさせたいと、

一生懸命な教師は たくさんいる。

おとなは誤った情報で、

教師や教育を 批判すべきではないと思う。


教師が伸び伸びと

子どもと関わり、

生き方も含めて、

その教師が与えてくれる教育を

見守り、応援することが大切だ。

 

子どもが 自分の命を 自分のものだと 認識し、

真実を 見抜くためには

それだけの知識と 教養を身につけねば、

ものの本質は 見えてこないということを

おとなが 教えてやらねばならない。

再び

付和雷同な国と

とならぬように…

 

 


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 

特に 教育 を テーマに記した 拙文については こちら を ご高覧いただけましたら幸いです。

 

 

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