「自己責任」 について、今夜はお話しましょうか?
こんにちは。
クラブマネジメントの 小幡万里子です。
こんにゃくゼリーの件で、昨日、一昨日と
アクセス数が上がってびっくり!
昨日だけで 500 人のご訪問者が…
「自己責任」 という言葉は
時に冷たくも感じられますが
現在、責任回避のために
他人のせいにしか出来ない人が
増えている現状を見ていると
甘ったれるのも いい加減にしなさい!
と、言いたくなったりします。
なぜ。
モンスターペアレンツとか
言ったもん勝ちの 非常識人間とか
裁判でも理不尽な弁護をする弁護士とか
こんなにも増えてきたのだろう~ と・・・
思い起こせば
「個人主義」を「わがまま」と
勘違いして受けとめる愚かな人間が
自分のしていることを恥ずかしいと
思えなくなってきたからなのだと思います。
2005年に起きた 千葉市動物園の幼児死亡事故以来
こんなことで賠償金をもらえるならば
ダメでもともと、やってみようじゃないか
そんな人間が増えてきました。
千葉市若葉区にある 市動物公園で
ベンチから転倒した男児(1歳)が
枯れ枝に刺さり 死亡した事故で
市の安全管理に疑問を訴えた両親が
約5000万円の損害賠償を求め
千葉地裁であり、長谷川誠裁判長は
市の責任を一部認め、約1200万円の支払いを命じました。
この事故は 同区内に住む男性会社員の長男(当時1歳7か月)が
背もたれのないベンチ(高さ約40センチ)から転落
内側に植えられていた ツツジの枯れ枝が
男児の後頭部に突き刺さり、
脳挫傷で死亡したという事故です。
市側は「親の保護観察内の出来事で責任はない」としましたが
両親側は「ベンチには転倒を防ぐ背もたれがなく
幼児が転落した際に体に突き刺さる
危険な枯れ枝が密生しており安全配慮に欠けていた」
などと市側の責任を訴えました。
長谷川誠裁判長は、動物園の特性上
ベンチに背もたれがないだけで
安全性を欠いていたとはいえないとした上で
「枯れ枝の硬さや鋭さから、転倒した人がけがを負うことは予見すべきであった」
などと両親側の主張を一部認めた判決を申し渡したのでした。
この裁判の判決を聞いた時にも
1歳7カ月の子どもを 背もたれのない椅子に座らさせるとしたら
私なら親として、自分の膝に座らせるか
一人で座りたいと言ったら、
背中に手をあてているか
触られるのが嫌だと駄々をこねたら
「危ないから、一人で座ることはしてはいけない!」
と、泣いてもわめいても、命の危険から遠ざけるのに…と、思いました。
1999年に起きた縁日で
綿菓子の割り箸を口に入れたまま走っていた 4歳男児が転んで、
割り箸を脳に突き刺してしまい
それを自力で抜き取った際に、割り箸が折れ
脳の中に残されてしまいました。
救急病院へ運ばれましたが、
割り箸のことは告げられず
傷も僅かで、男児は家に帰され、
翌日亡くなりました。
そして、裁判。
結果は医師は無罪。
a.wikipedia.org/wiki/杏林大病院割りばし死事件
1999年に起きた事件は
2009年の民事裁判でも
上告が棄却され、
一連の裁判は終わりました。
この間。
被告であった医師は 廃人同様になったと
彼の先輩医師が ブログで書いております。
http://mimihana.blog9.fc2.com/blog-entry-206.html
この事件もまた、縁日という場所で
非日常の状況であったとしても
箸を口入れて 走り回っていたら
親が
気づいた親が
また、周囲の大人も
「危ないよ」と
声をかけることが、
大人として社会として
あるべき姿 なのではないでしょうか?
先日、あるお父さまが
「幼稚園で、参観をしている時に
自分の娘の膝の上まで身体を倒してくる男の子を見て
叱ったら、先生も叱らない、妻である母親も叱らないで
お父さん、恥ずかしいからやめて と言われて
離婚を決意した」
と 冗談交じりで話していました。
私も、自分の子で無くても 中学校の授業参観の時に
「ちょっと、ちゃんと教科書出して 先生の話を聞きなさい」
って、他人の子に言いますよ~ と言うと
「それは、我が子が いやがらない?」
と聞かれたので
「うちのママは、そういう人って思っているし
他の子たちも、さやののママはそういう人ってわかってるから」
と答えました。
親の責任というのは、
生れてから歩き話し出すまでは
とにかく、命を生きながらえることが役目でしょう。
衣食住を確保し、
命に関わるような食や生活環境については
危機管理を忘れてはいけません。
それから、言葉の理解が進んだ時には
しっかりと、いいこと、悪いこと、危険なことなどを
体に沁み込ませるまで教えることです。
それが身についてはじめて
子どもたちの冒険が始まるのです。
親の 「自己責任」 というのは
こうして、子どもを冒険に出すまでの
基礎を身につけさせること。
その子どもの命を守る責任を棚上げして
他者に責任を押し付けるということは
甘えた生き方
としか思えないのです。
私の弟は、1歳9カ月の時に、
父と散歩をしていて
父が手を離した時に、
道路の向かい側にいた
近所のおばさんを目指して
一目散に走り出し
2トントラックに轢かれて、生死を彷徨いました。
彼が 28歳の時、父の恫喝がもとで死を選択しました。
父は彼の死を目にして
「俺はこいつを2度殺してしまった」
と言いました。
弟の事故後、後遺症が残ると言われた時
多くの人が、
損害賠償の訴訟を起こしなさい
と言いました。
けれど、父は、相手の謝罪も受けることなく
賠償請求もせず、その後を過ごしました。
とても冷たい娘であると人から思われると思いますが
弟の事故の原因は、
たったの一瞬であっても
小さな1歳9カ月の弟の手を離した 父の責任であったと思います。
頑固な父はなにも言いませんでしたが
ビジネスの場では、いくつもの裁判も
ものともしない人間である父が
弟の事故については、
自分の責任を
心の底で感じていたのではないかと思います。
この出会いと、時間を共有してくださった方がたに
心から感謝です。
今日も一日…ありがとう。
お時間ございます方は、
過COノCO途 にある The Way We Were – 追憶 の
拙文を お読みいただけましたら 幸いです。
特に 憎まれママの子育て日記 を テーマに記した 拙文については こちら を ご高覧いただけましたら幸いです。
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