学びの原点

振り返ります! 中学校生活

2007年3月21日

 

おわかりになりますでしょう。

もちろん。

コメントの多さ = 先生の生徒への思い

では ありませんが…

 

1、2年の担任の先生は 細かい字でびっしりと、

美しい字で丁寧に書いてくださっております。

 

3年の担任は

小学生の次女が「先生の字、汚いね」というほど、

まるで殴り書きのような字。

 

この3年の教室での ひどい状態に生徒を置いて

「成績はもう一息」って…

と憤った記憶がございます。

 

「元気を出して」って… 

出せるか!学校に来てるだけ私は偉い!

と思うくらいの状態でした。

 

この教室で、定期試験のテストが返された日。

私が英語のテスト (担任が英語教諭) を返され、

席につこうと 机の間を 歩いていると、

パンチパーマの 眉の無いサッカー部の不良男子が、

こともあろうに私のお腹に蹴りを入れました。

(痛かったです! 今でも忘れません。 O川くん!)

 

「いい点数だからって、笑うんじゃねえよ!」

それが理由。

(決して 笑ってなどいません。 完全に 因縁 をつけられただけでした)

 

私は、お腹を押さえて 保健室に行きました。

(担任は なにも言いません)

泣くもんか! と思い、保健室まで平然と歩き、

養護の先生の前で 号泣しました。

「悔しいね。悔しいね。」

そう言って、養護の先生は 私の背中を撫でてくれました。

 


 

朝礼で具合の悪くなった時、

担任の英語教諭が

「このくらいで…」と言った時、

「この子は 我慢強い子で、この子が辛いって言う時は、本当に 我慢に我慢をして どうしようもない時です!」

きっぱりと、そう言ってくださった先生です。

 

当時の都立高校は グループ制度になり2グループに分かれていました。

学校群制度 から グループ合同選抜制度 へと変わる 最初の学年でした。 

 

そうして受験指導で、この下のグループの下位校を受けろと言う担任。

母は上位校を希望し、

私は家から近い上位校を志望しており、

充分それだけの実力はあったと思っていました。

母は激怒し、

「とにかく希望校を受験させます!」

と怒鳴って 帰ってきました。

部活の先生にも相談し、上位グループの中で志望校より

下の高校を受験することとなりました。

(結局。入試の点数は母の希望校も私の志望校もクリアしていたのだけどね)

 

この都立高校の入試前に、校内で暴れ、

警察介入の事件を起こしたのが、不良グループ。

クラスの成績を 平均点に引き上げるための 1/4の生徒のうち、

すでに男子の優等生くんたちは、

この不良男子にいたぶられ、自宅で受験勉強を続けていました。

私と 進学校へ進んだ 水泳部の涼しげな目をした成績の良い男の子。

二人だけが、

こいつらのせいで 不登校になって 出席日数を減らすなんて 馬鹿げたことはしない!

と、最後まで 通学を続けました。

(同窓会で再会した時、確かに きちんとされた社会人になってらっしゃいました。・・・東工大の助教授!)

 


 

今。

振り返ると、

中2の時のクラスも大変だったらしいです(笑)

担任の先生が通信簿に書くくらい

私は なにかと闘っていたのでしょう。

それでも、思い出せないのは、

3年の時があまりにひどいクラスであったためと、

この中2の担任の先生が、大変な中で

私を見守っていてくださったからに 違いありません。

3年の担任は 不良の子たちには理解があり、人気もありました。

でも、どこか間違っている! と、そう感じていました。

それでも、私を見守っていてくれた

1、2年の担任の先生。

部活の先生。

養護の先生。

そして、校長先生も 私の内申書に 特別推薦生徒として推薦してくださった のだそうです。

(卒業してから 部活の先生が 教えてくださいました)

 


 

振り返ります! 中学校生活

近くの養護学校で 障害を持っている 同じ中学生と 交流を持つ活動を始めた 最初の年度の 生徒でした。

その時に その様子をビデオに取り、

養護学校の生徒の皆さんと 普通に接していた 私の姿を見て、

大変感動したとおっしゃってくださいました。

私は 普通に 当たり前のことを していただけなのですが…

それができない生徒が大半だったのでしょう。

私が 生徒会の役員をしていた生徒総会で、

あまりの五月蝿さに

「静かにしてください!」

と 何度も声をかけても静かにならず

 

静かにしてください!これは私たち生徒の生徒総会です!

これが、生徒総会と呼べるんですか!

 

と、体育館に 静寂を齎した私です。

(あ。この頃から 場の空気を 凍てつかせていたのね…)

 

そんな私を、見守っていてくださって

(卒業式は 先生が側にいてくれたっけ… 小幡万里子は 卒リン(卒業リンチ)に遭うとか 言われてたからね)

励ましてくださっていた先生がいてくれたから、

頑張ってこれたのかもしれません。

それにしても、どうして私って、こういう行動をとってしまうの?

ひっそりと 隠れて生きていれば、楽なのに…

 


 

中学時代の 辛かったことは、

母には 話していなかったし、

一つ下の妹にも、きっと 見えていないことだったかもしれません。

 

それは、私が いつも元気で 立派に学校生活を送っていることで、

母が 安心すると 思っていたからかもしれません。

 

自分の辛さを 人に言うことが、

自分に負けると思っていたからかもしれません。

 

今は、辛い気持ちを話せるだけ、

おとなに なったのかもしれません。

 

でも、あの時。

自分の意志を曲げて、

大きなうねりに流されて 自分を捨てることの方が、

恥ずかしいことだと思っていたのは 確かです。

 

たとえ、カミソリを出されても

(当時、女優になるはずだったので(笑)「顔だけはやめて!」って言おうかと…(爆))

学校へ来られなくなった 友だちの心を思うと、

後には引けない 私でした。

 

きっと。

先生がたは 危なっかしいと ご心配してくださっていたのでしょうね。

 


振り返ります! 中学校生活

振り返ります! 私の 中学校生活

楽しかったと 素直に思えるのは 1年生の時です。

2年、3年と、私は何と闘っていたのでしょう。

 

それでも1、2年の担任の先生が見守っていてくれて

(多分、生徒の皆が私がヒイキされていると言うので、3年の担任にはならなかったのでしょう)

そして、部活の友だちがいてくれて、

私を私のままで受け入れてくれる人達が、

確かにいてくれたから頑張れたのでしょう。

 

そうして、その友だちを守りたいという思いが

私を 強くもしてくれたのでしょう。

 

本当に、馬鹿みたいって思うのだけど…

カッコ悪いって思うのだけど…

 

そんな中学生だった自分を 愛おしいと感じています。

(あ。それにしても 元木先生! 2年生の時、何があったっけ?)

 


通信簿 シリーズ

通信簿

中学校の通信簿

こうなったら高校も?


 

お時間ございます方は、

COCORO にある FOR WHOM THE BELL TOLLS – 誰がために鐘は鳴る

拙文をお読みいただけましたら幸いです。

 

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