想ひ出すこと

子を生むこと

2008年1月13日

子を生むこと って どういうこと?

私は 子どもを 産むまいと 思っていた

子どもを 産む資格 なんて

私には 無い と 思っていた。

 

私は 不完全な人間だから

そんな人間が 人格を育てていいはずはない と 思っていた

そんな人間が 人格をもつ子どもを 育てられる と 思っていなかった


私は まだ 23歳

子を生むこと って?

今の時代は 若いうちは いっぱい遊んで、

それから 子どもを産めばいい と

随分と 寛大な意識が 蔓延している。

 


 

以前ならば 30歳前には 子どもを産み納める 風潮だったのが

今や 40歳を過ぎても 初産 ! という 女性も 増えてきた。

 

様々な 理由で

「欲しくても できない」

「夫婦で 子どもは 持たないと決めている」

と いう夫婦のあり方は、尊重するし、それはそれで 良い と 思う。

 

他人から 自分の生き方に 口出しされたくもないし

他人の生き方を どうこう言うには 私は 未熟過ぎるので…

 


だから とても 個人的な見解 であることを ここで伝えておく


 

私は どうせ産むなら 早く生む方がいい と思う。

(10代の 出産には 反対だけれど)

子を生むこと 過去

若いうちは 心身共に 力がある。

子育てには 体力 と 知力、 精神力 が 必要だからだ。

 

子を生むこと

それは 蓄積された 体力、 知力、 精神 力とは 呼ぶことはできないが

若いながらの 無鉄砲なパワーというものは、

子育てにとっては 有利に働くこともある。

 


人は 衰えていく

人間の生には 必ず 終わりがある のだ。

自分の人生を 楽しみ尽くした後の、

さらに おまけの楽しみのように 子どもを産んで

自分は 子どもが成長しないうちに

死に逝くことも あるかもしれないと 思わないのだろうか?

 

不完全な人間 のまま、

親としての 責任を 全うできずに

死に逝く時になって

後悔しないのだろうか?


それは 若くして 子どもを 産んでも、

人の命の 保障なんて どこにもないのだから

若くても 老いても 同じことだと 主張する者もいるだろう…

 

高齢で 出産するからと、

遺伝子検査や 出生前診断の検査を 行う者も 多くなってきた。

 

出産 そのものも 計画出産となり、

陣痛促進剤を使い、

出産の日付さえも 決める産院もある。

 

子を産むために、

計画妊娠や 遺伝子操作を行ない、

体外受精

代理出産…

 

人が 人の 生を 操作する 時代

 

子を 授かる

神からの 自然の 贈り物

と いう意識

が 薄らいでいることに 恐怖を 感じる。

 


 

自分の 中に、

生を 受けた 新しい生命の存在 に 気づいた時

それまで 感じ得ることのなかった

自分の生命も、

大切にしなくては ならない

と 気づいた。

 

子を生むこと 真由子 涼乃

 

出産までの 十月十日 といわれる 時間

子を生むこと とは

胎内で 確実に 成長している 命の存在 を感じる

その時間 かもしれない。

 

自分の内でありながら、 自分とは 別の存在 を 確かに感じる。

 

出産は 自分と胎児との 生死を賭けた瞬間 である。

 


 

生きることに  保証は あり得ない。

 


 

そのことを 我が身を以て 知る 瞬間である。

 

自分の身体から、

別の個体・・・

生命・・・

人格・・・

が その瞬間に 生み出され

そこで 初めて目にする 我が子を、

どれだけ 愛おしく 感じたことだろう。

人格を育てる

 

その大義よりも、 愛おしさと 可愛らしさで 自分の感情が満たされる。

 


そして、

日々、ひとつひとつのことが 出来るようになる

我が子に 一喜一憂し

我が子の 全てを 天才だと、

無心に その存在を 受け入れることのできる

自分の隠された 雅量を 嬉しく 感じた。

 

自身でさえ 未知の 自分を知ることが、たくさんあった。

子を生むこと の 素晴らしさ

それを 実感した

 


 

もう一度、

人生を 歩むことが できるのだ

忘れられた 幼い日の 思い出。

 

忘れたいと 思った

子どもの頃の 出来事。

 

子を生むこと 愛娘

 

我が子を通して、

新しい 彼女たちの 人生を 見守りつづけることが できる。

 

それは、耐えようもなく 満ち足りた 充足の時間なのである。

 

自分以外の人生を 見守り続けられることの 幸福は、

子を持って 初めて知る 喜びである。

 


 

そして 思うのである。

 

母も また、

同じように 三人の子どもの 成長を慈しみ

それぞれの人生を 見守ることの 喜びを 感じていたのであろうと…

 

私は おそらく、

母自身が

「こう ありたい」

と 願う 生き方を 完璧とまでは 呼べずとも

その 願う人生を 歩み、

それを 母にも 味合わせていたのではないかと…

 

妹は、悉く、

母の思うような 生き方を 逸脱してきたが

その父に似た生き方は、

ある種、母の羨望でも あったのではないか と思う。

 

弟は、母にとって、半身の存在だったのであろう。

 

父は 母が 亡くなった後、

自身の半身を失った と言ったが

奇しくも 父が 幼い弟の手を離し、

死線を 彷徨ったことが きっかけで

母は その後の 四半世紀以上を、

弟の 生命を 守ることに 力を注いで

生きてきたように 感じる。

 

そうした、

子を通しての 人生のやり直し というのは

自分の子ども時代とは、

明らかに 異なる 時代の子ども時代を

もう一度、

別の時代で 追体験していることになる という 魅力があるのだ。

 

 


 

不完全な自分が、 完全ではないからこそ

完全に 近づくための 努力も 勉強もする。

 


 

忍耐も 我慢も 必要な子育ては、

不完全な自分を より強固な自分という

新たな人格を 足された 自身を形作る ことができる。

 

不完全な自分だと 知っているからこそ

できれば、 その不完全さを 少しでも埋めたいと思う。

 

そうして、私は少しずつ、子どもたちに親という、おとなにしてもらってきたのだと思う。

 

子を生むということ は

子と ともに 親として 成長できる 機会である

この寒い季節に、

寒い土地で、

子を預け、

働く母親がいる。

 

母のいない家に 帰る子どもたち が いる。

 

子どもの成長を 見る機会 を 失うとともに

自分の生き方 を

ひとつ 失ってしまっている おとなたち が いる。

 

自分は 完全なおとなだと 声を大にして言う人間

それに 冷笑せざるを得ない 私が いる。

 

私は 不完全な存在であるがゆえに、

もっと 不完全な子どもと 接することで

自分が 育てられている

 


おとな と 呼ばれる人間は

それを 忘れてはいけないのではないか と 思う。

 

お時間ございます方は、

過COノCO途 にある THE WAY WE WERE – 追憶

想い出すこと の 拙文をお読みいただけましたら幸いです。


母が 弟の未来のために

作った法人 を

設立年に生まれた

私の長女が 後継者として

経営の勉強をしております。

ピュア株式会社

亡くなった母の戒名

「純篤院日節信女」

より 依拠しております。

四半世紀に亡くなった母が

今も 孫の 真由子を 見守るように

皆様の深い愛情をいただけましたら幸いです。

 

お時間ございます方は、

過COノCO途 にある 想ひ出すこと

拙文を お読みいただけましたら 幸いです。

 

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